『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その24

その23(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/05/27/000100)の続き。





秋七月、立皇子馮為南陽王。
壬午、南陽王馮薨。
九月庚午朔、日有食之。詔三公舉至孝二人、九卿・校尉・郡國守相各一人、皆上封事、靡有所諱。
曹操袁紹戰於官度、紹敗走。
冬十月辛亥、有星孛于大梁。
東海王祗薨。
是歳、孫策死、弟權襲其餘業。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

建安5年(12月まで)。



官渡の戦いが始まり、終わる。


八月、(袁)紹連營稍前、依沙塠為屯、東西數十里。公亦分營與相當、合戰不利。時公兵不滿萬、傷者十二三。
紹復進臨官渡、起土山地道。公亦於内作之、以相應。紹射營中、矢如雨下、行者皆蒙楯、衆大懼。
時公糧少、與荀彧書、議欲還許。彧以為「紹悉衆聚官渡、欲與公決勝敗。公以至弱當至彊、若不能制、必為所乗、是天下之大機也。且紹、布衣之雄耳、能聚人而不能用。夫以公之神武明哲而輔以大順、何向而不濟!」公從之。
孫策聞公與紹相持、乃謀襲許、未發、為刺客所殺。
汝南降賊劉辟等叛應紹、略許下。紹使劉備助辟、公使曹仁撃破之。備走、遂破辟屯。
袁紹運穀車數千乗至、公用荀攸計、遣徐晃・史渙邀撃、大破之、盡燒其車。
公與紹相拒連月、雖比戰斬將、然衆少糧盡、士卒疲乏。公謂運者曰「卻十五日為汝破紹、不復勞汝矣。」
冬十月、紹遣車運穀、使淳于瓊等五人將兵萬餘人送之、宿紹營北四十里。紹謀臣許攸貪財、紹不能足、來奔、因説公撃瓊等。左右疑之、荀攸賈詡勸公。
公乃留曹洪守、自將歩騎五千人夜往、會明至。瓊等望見公兵少、出陳門外。公急撃之、瓊退保營、遂攻之。紹遣騎救瓊。左右或言「賊騎稍近、請分兵拒之」。公怒曰「賊在背後、乃白!」士卒皆殊死戰、大破瓊等、皆斬之。
紹初聞公之撃瓊、謂長子譚曰「就彼攻瓊等、吾攻拔其營、彼固無所歸矣!」乃使張郃・高覽攻曹洪。郃等聞瓊破、遂來降。紹衆大潰、紹及譚棄軍走、渡河。追之不及、盡收其輜重圖書珍寶、虜其衆。
公收紹書中、得許下及軍中人書、皆焚之。冀州諸郡多舉城邑降者。
(『三国志』巻一、武帝紀)

三国志武帝紀ではもう少し詳しい。


曹操が兵も少なく兵糧にも困っていた様子が伺える。劇的勝利を演出するために「盛っている」可能性もあるだろうが、当初は自分の側から攻め、劉備顔良文醜を破っていてもなお、かなり追い詰められていたという事になる。



詳しい流れは有名だろうから省略する。


太祖乃留曹洪守、自將歩騎五千候夜潛往攻瓊。紹遣騎救之、敗走。破瓊等、悉斬之。太祖還、未至營、紹將高覽・張郃等率其衆降。紹衆眾大潰、紹與譚單騎退渡河。餘衆偽降、盡坑之。
(『三国志』巻六、袁紹伝)


この時、袁紹らは兵を置いて逃げ去り、残された兵は曹操に降伏したが、「偽降」としてことごとく穴の中にしまっちゃわれたそうだ。


三国志』の注釈等では七万人斬首とか八万人殺したとか書かれている。実際どうだったかはともかく、かなりの人数だったことは間違いないだろう。



曹操自身が兵糧に困っており、袁紹の兵糧も焼かれたとあっては、そもそも降伏した兵の食料が間に合ったのか、ちょっと怪しい感じがする。



さりとて袁紹に返すわけにも、解放するわけにもいかない。ということは・・・?



などと考えてしまう。





孫策献帝奪取を計画したようだが暗殺されて終わる。ちょっと前には曹操に恭順の意を示していたような気もするが、好機と見れば豹変するのが当時の群雄というものなのだろう。