宣陵孝子

市賈民為宣陵孝子者數十人、皆除太子舍人。
(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀、熹平六年)

後漢霊帝の時、「宣陵孝子」という存在があったそうだ。



二月辛酉、葬孝桓皇帝于宣陵、廟曰威宗。
(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀、建寧元年)

「宣陵」とは霊帝の先代である桓帝の皇帝陵のことなので、「桓帝陵の孝子」ということになる。



「民を金で買い取って桓帝陵の孝子とした」、という意味に思われるのだが、いったい彼らは何をするために集められたのか?



七事、伏見前一切以宣陵孝子為太子舍人。
臣聞孝文皇帝制喪服三十六日、雖繼體之君、父子至親、公卿列臣、受恩之重、皆屈情從制、不敢踰越。
今虚偽小人、本非骨肉、既無幸私之恩、又無祿仕之實、惻隱思慕、情何縁生?而羣聚山陵、假名稱孝、行不隠心、義無所依、至有姦軌之人、通容其中。
桓思皇后祖載之時、東郡有盜人妻者亡在孝中、本縣追捕、乃伏其辜。虚偽雜穢、難得勝言。又前至得拜、後輩被遺。或經年陵次、以暫歸見漏、或以人自代、亦蒙寵榮。爭訟怨恨、凶凶道路。太子官屬、宜搜選令徳、豈有但取丘墓凶醜之人?其為不祥、莫與大焉。宜遣歸田里、以明詐偽。
(『後漢書』列伝第五十下、蔡邕伝下)

蔡邕の言うところでは、「文帝は喪を三十六日のみと定めたのだからそれを超えるべきではない。無関係な小物を偽って孝子扱いして良いものか?」「孝子の中に犯罪者の妻がおり捕えられたことがあった。また最初は高官になれたのに後からなった者はなれなかったり、何年も従事していたのに少しの間帰ったら任官から漏れたり、代役を立てて高官を得たり、といったこともあった」「太子の属官は優れた人格者を選ぶべき」「彼らは故郷に帰して偽りであることを明らかにすべき」とのことである。




これらの文を読むと、どうやら彼ら「宣陵孝子」は桓帝の喪に長年服し、その代わりに太子舎人という官位を与えられた、というもののように思われる。



「三十六日の喪」を持ち出すところを見ると、この「宣陵孝子」は「霊帝に代わって三年の喪を執り行う」という代役なのではないか、と思われる。




「三年の喪自体するべきではない」という問題と、「喪に服するべきでない者に服させるのは欺瞞である」という問題の二つを蔡邕は指摘しているのだろう。多分。




このような服喪の代役がこの時初めて行われた発明だったのか、それとも前からよく行われていたことだったのかはよくわからないが、他の例は今のところ見つかっていない。