『後漢書』孝霊帝紀を読んでみよう:その13

その12(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/04/02/000200)の続き。





光和元年春正月、合浦・交阯烏滸蠻叛、招引九真・日南民攻沒郡縣。
太尉孟𢒰罷。
二月辛亥朔、日有食之。
癸丑、光祿勳陳國袁滂為司徒。
己未、地震
始置鴻都門學生。
三月辛丑、大赦天下、改元光和。
太常常山張顥為太尉。
夏四月丙辰、地震
侍中寺雌雞化為雄。
司空陳耽免、太常來豔為司空。
五月壬午、有白衣人入徳陽殿門、亡去不獲。
六月丁丑、有黑氣墯所御温徳殿庭中。
(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀)

光和元年(前半)。



初、帝好學、自造皇羲篇五十章、因引諸生能為文賦者。本頗以經學相招、後諸為尺牘及工書鳥篆者、皆加引召、遂至數十人。侍中祭酒樂松・賈護、多引無行趣埶之徒、並待制鴻都門下、憙陳方俗閭里小事、帝甚悦之、待以不次之位。又市賈小民、為宣陵孝子者、復數十人、悉除為郎中・太子舍人。・・・(中略)・・・光和元年、遂置鴻都門學、畫孔子及七十二弟子像。其諸生皆勑州郡三公舉用辟召、或出為刺史・太守、入為尚書・侍中、乃有封侯賜爵者、士君子皆恥與為列焉。
(『後漢書』列伝第五十下、蔡邕伝下)


霊帝は学問を好み、自ら書を著し、また文章や賦を作る者など優遇したのだそうだ。あまり品行のよろしくない者も唯才主義で取り立てたのだとか。


「鴻都門学」というのは、そんな霊帝肝煎りで設立されたのだとか。そこの出身者は仕官の中で優遇されたようだが、折り目正しい士大夫たちはその仲間扱いされるのを恥じたという。




何か、数十年後に聞くような話が混ざってるような。