『後漢書』孝霊帝紀を読んでみよう:その10

その9(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/03/30/000100)の続き。





四年春三月、詔諸儒正五經文字、刻石立于太學門外。
封河閒王建子佗為任城王。
夏四月、郡國七大水。
五月丁卯、大赦天下。
延陵園灾、遣使者持節告祠延陵。
鮮卑寇幽州。
六月、弘農・三輔螟。
遣守宮令之鹽監、穿渠為民興利。
令郡國遇災者、減田租之半、其傷害十四以上、勿收責。
冬十月丁巳、令天下繫囚罪未決、入縑贖。
拜沖帝母虞美人為憲園貴人、質帝母陳夫人為渤海孝王妃。
改平準為中準、使宦者為令、列於内署。自是諸署悉以閹人為丞・令。
(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀)

熹平4年。



洛陽に立てられた五経の石碑というのは、以前記事にしたものの事か。



熹平四年、小黃門趙祐・議郎卑整上言「春秋之義、母以子貴。隆漢盛典、尊崇母氏、凡在外戚、莫不加寵。今沖帝母虞大家、質帝母陳夫人、皆誕生聖皇、而未有稱號。夫臣子雖賤、尚有追贈之典、況二母見在、不蒙崇顯之次、無以述遵先世、垂示後世也。」帝感其言、乃拜虞大家為憲陵貴人、陳夫人為渤海孝王妃、使中常侍持節授印綬、遣太常以三牲告憲陵・懷陵・靜陵焉。
(『後漢書』紀第十下、陳夫人)

虞氏(虞美人)は順帝の寵姫で沖帝の実母。陳夫人は勃海孝王の側室で質帝(沖帝の後を継いだ)の実母。いずれもそれまでは特別な地位を与えられていなかったらしい。そこで彼女らに相応の地位を与える事にしたのだ。



憲陵とは順帝の陵の事なので、つまり順帝の貴人(後漢においては皇后に次ぐ地位)という事。陳夫人は勃海孝王の正妻扱いする、という事だろう。



霊帝の実の父母が特別な地位を与えられている事との整合性を取ろうという目的があったのかもしれない。




「自是諸署悉以閹人為丞・令」というのは、つまりそれまで宦官ではない一般の官僚が長官・次官であった諸官について、宦官を長官・次官とする、という事らしい。どこまでの官が該当したのか分からないが、宦官による実質的な朝廷支配、政権掌握が進んだ事は間違いないだろう。