『後漢書』孝霊帝紀を読んでみよう:その9

その8(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/03/29/000100)の続き。





三年春正月、夫餘國遣使貢獻。
二月己巳、大赦天下。
太常陳耽為太尉。
三月、中山王暢薨、無子、國除。
夏六月、封河閒王利子康為濟南王、奉孝仁皇祀。
秋、洛水溢。
冬十月癸丑、令天下繫囚罪未決、入縑贖。
十一月、楊州刺史臧旻率丹陽太守陳寅、大破許生於會稽、斬之。
任城王博薨。
十二月、鮮卑寇北地、北地太守夏育追擊破之。鮮卑又寇并州
司空唐珍罷、永樂少府許訓為司空。
(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀)

熹平3年。



河間王は桓帝霊帝を出した王家である。そこから新たな王を立てて孝仁皇(霊帝の父)の祭祀を継ぐというのは、宗家を継いだがために孝仁皇の祭祀を行う子孫がいないので、近しい一族が継ぐ、という事だろう。だが孝仁皇は皇帝に匹敵する格になっているので、その祭祀を継ぐ者にも相応の地位(王)を与えよう、という事なのではないだろうか。



もちろん、霊帝にとって他の皇族よりは信頼できる味方を増やそうとしての措置、という面もあるだろう。




それにしても、三公はあまりにもホイホイ変わりすぎである。イーグルスの監督でももう少し長期政権だ。