『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その12

その11(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20181107/1541516523)の続き。





秋七月大雨霖、至于八月。田榮歸逐田假、立儋子市為王、己為相、榮從弟膻為將軍。田假奔楚。田角・田簡奔趙。
項梁遂追秦軍、使召齊王兵倶西。榮曰、楚殺田假、趙殺角・簡、乃出兵。梁曰、田假窮來投我、我不忍殺。齊使曰、夫虺蝮螫手則斷手、螫足則斷足、為其害體也。夫田假・角・簡之在楚趙、豈有手足之戚、何故不殺。梁不聽。齊遂不肯出兵。
沛公・項梁敗秦師于雍丘、斬秦將李由。而梁益輕秦、有驕色。故楚令尹宋義諫曰、臣聞戰勝將驕卒惰者敗。今卒少惰矣、秦兵日盛、臣為君畏之。梁不聽。使宋義于齊、遇齊使者、義曰、武信君必敗。公徐行即免、疾行必及禍矣。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第一)


項梁、秦を討って李由(李斯の子)を殺し*1、一方で斉を新たに掌握した田栄との関係は決裂する。





そんな状況に楚の令尹だったという宋義は不安を抱いて斉の人間に警告した。フラグである。



「令尹」は楚における宰相であると言うが、どの段階での令尹なのかは分からない。秦に滅ぼされる前なのか、それとも陳勝の元での事なのか。どちらにしても、宋義が斉と関係が深いらしい事は注意すべき点であろう。



なお、宋義が楚の令尹であったというのは『史記』『漢書』に載っていない情報のようだ。

*1:史記』高祖本紀などによると李由を討ったのは劉邦項羽である。