『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その27

その26(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20181203/1543763030)の続き。





春正月、項羽伐齊、殺田榮。齊降於楚。羽焚其城郭、殺降卒、繫虜老弱、齊復叛楚降漢。
漢王立社稷長安、施恩惠、賜人爵。蜀・漢人從軍者家復租税二歳、關中人從軍者復租一歳、人年五十已上、能善道教訓者復徭役。常以十月賜民牛酒。蕭何守關中、治櫟陽宮、定約束、轉漕給軍、專任關中事。
是時沛人王陵聚黨數千人在南陽、始來從漢。項羽得陵母、漢使至楚、羽使母招陵。陵母見使者曰、為我告陵、漢王長者也、終事之無二心。因伏劍死。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第二)


項羽、斉を討って田栄を殺す。


項王聞之、大怒、迺北伐齊。齊王田榮兵敗、走平原、平原人殺榮。項王遂燒夷齊城郭、所過者盡屠之。齊人相聚畔之。榮弟膻收齊散兵得數萬人、反撃項羽城陽
(『史記』巻九十四、田儋列伝)


しかし、斉は項羽による城郭破壊や殺戮に耐えかね、田栄の弟の田横の元で蜂起して項羽への反抗を再開。




劉邦南陽にいた王陵を味方に付けた。つまり、関中の裏口(武関)側をも抑えた訳である。




これでいよいよ更なる東方進出の用意が整った劉邦。関中を蕭何に任せたというのは、劉邦は関中を離れる、という事である。