墓守

十二月、高祖曰「秦始皇帝・楚隱王陳渉・魏安釐王・齊緡王・趙悼襄王、皆絶無後、予守冢各十家、秦皇帝二十家、魏公子無忌五家。」
(『史記』巻八、高祖本紀)

十二月、詔曰「秦皇帝・楚隱王・魏安釐王・齊愍王・趙悼襄王、皆絶亡後。其與秦始皇帝守冢二十家、楚・魏・齊各十家、趙及魏公子亡忌各五家、令視其冢、復亡與它事。」
(『漢書』巻一下、高帝紀下)

漢の高祖は統一後に始皇帝、楚王(陳勝)、斉王、趙王の子孫が断絶していることからそれらの墓守を置いてやることにした。




楚王というのが元々の楚王ではなく陳勝のことだったり、韓と燕が抜けていたりするのが面白い*1



あと、なぜか趙王の墓守に付けられた戸数が『史記』では10だったのに『漢書』では5となっている。

趙王はなんで他の王より待遇が悪いんだろう?

*1:韓が抜けているのは韓王信が一度は復興しているからだろうか。燕は知らん。