『史記』陳渉世家を読んでみよう:その6

その5(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180724/1532358460)の続き。





周文、陳之賢人也、嘗為項燕軍視日、事春申君、自言習兵、陳王與之將軍印、西撃秦。行收兵至關、車千乗、卒數十萬、至戲、軍焉。
秦令少府章邯免酈山徒・人奴産子生、悉發以撃楚大軍、盡敗之。
周文敗、走出關、止次曹陽二三月。章邯追敗之、復走次澠池十餘日。章邯撃、大破之。周文自剄、軍遂不戰。
(『史記』巻四十八、陳渉世家)

陳勝は周文なる人物を秦へ派遣した。「戲」に至ったという事は、函谷関を超えて秦の都咸陽の喉元にまで迫ったという事である。



呉広が包囲している滎陽をスルーして直接函谷関を狙ったという事のようだ。それだけ秦の支配が効かなくなっていたという事でもあるだろう。



二年冬、陳渉所遣周章等將西至戲、兵數十萬。
二世大驚、與羣臣謀曰「奈何?」少府章邯曰「盜已至、衆彊、今發近縣不及矣。酈山徒多、請赦之、授兵以撃之。」二世乃大赦天下、使章邯將、撃破周章軍而走、遂殺章曹陽。
(『史記』巻六、秦始皇本紀、二世二年)

驪山というのはあの始皇帝陵があったところである。つまり少府章邯は聖帝十字陵建造のための刑徒らに武器を持たせて兵士にして撃退するしかない、と言っているのだ。



上手く統率出来なかったら大変な事になりそうだが、そうでもしないと咸陽が落とされてしまう、という切羽詰まった状況だったのだろう。




周文(周章)はあっさり負けたように見えるが、かなりの兵数を率いて一度は函谷関を超えて攻め込んだ訳だから、戦国時代の常識で考えたら相当な快挙ではあるまいか。