信者

徐州黄巾起、以(陶)謙為徐州剌史撃黄巾、破走之。
(『三国志』巻八、陶謙伝)

いわゆる「黄巾の乱」は各地で巻き起こったが、その中には徐州も含まれていた。




その後、「青州黄巾」はあの曹操に帰順するまでは青州・兗州近辺をうろうろしていた。




及子(曹)操起兵、不肯相隨、乃與少子疾避亂琅邪、為徐州刺史陶謙所殺。
(『後漢書』列伝第六十八、宦者列伝、曹騰)

そういった情勢の中、曹操の父曹嵩はそんな地域に敢えて疎開したのだと伝えられている。




中平元年、大方馬元義等先收荊・楊數萬人、期會發於鄴。元義數往來京師、中常侍封諝・徐奉等為内應、約以三月五日内外倶起。未及作亂、而張角弟子濟南唐周上書告之、於是車裂元義於洛陽。靈帝以周章下三公・司隸、使鉤盾令周斌將三府掾屬、案驗宮省直衛及百姓有事角道者、誅殺千餘人、推考冀州、逐捕角等。角等知事已露、晨夜馳勑諸方、一時倶起。
(『後漢書』列伝第六十一、皇甫嵩伝)

そこでふと思い出したのが、黄巾は皇帝の側近の宦官や護衛にも協力者を持っていたという事だ。というか、信者だったという事なのだろう。




黄巾がうろうろしている地域でも、同じ信仰の持ち主であればむしろ安心して通行・居住できたかもしれないなあ、などとちょっとだけ思った。思っただけ。