『三国志』武帝紀を読んでみよう:その9

その8(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/12/08/000100)の続き。





四年春、軍鄄城。荊州劉表斷(袁)術糧道、術引軍入陳留、屯封丘、黑山餘賊及於夫羅等佐之。術使將劉詳屯匡亭。太祖擊詳、術救之、與戰、大破之。術退保封丘、遂圍之、未合、術走襄邑、追到太壽、決渠水灌城。走寧陵、又追之、走九江。
夏、太祖還軍定陶。
下邳闕宣聚衆數千人、自稱天子。徐州牧陶謙與共舉兵、取泰山華・費、略任城。秋、太祖征陶謙、下十餘城、謙守城不敢出。
是歳、孫策袁術使渡江、數年閒遂有江東。
(『三国志』巻一、武帝紀)

初平4年。青州黄巾の降伏を受けた魏武、袁術陶謙を攻める。


初平四年、太祖征(陶)謙、攻拔十餘城、至彭城大戰。謙兵敗走、死者萬數、泗水為之不流。謙退守郯。太祖以糧少引軍還。
興平元年、復東征、略定瑯邪・東海諸縣。謙恐、欲走歸丹楊。會張邈叛迎呂布、太祖還擊布。是歳、謙病死。
(『三国志』巻八、陶謙伝)


三国志陶謙伝によると、この年の魏武の陶謙攻めでは1万にも達する死者が出て泗水がせき止められるほどの死体が積みあがったという。



これまでの魏武はそこまで圧倒的な軍事力を見せていないように思うので、これはやはり青州黄巾の力かもしれない。


その一方で、食い詰め者であった青州黄巾を使ったのだとすれば、道中では殺戮と略奪が横行したのではなかろうか、という感じがする。というか、号100万の人がいたのだとすれば、領内に置いておくだけでも食糧問題が発生していたのではなかろうか。


そうなると、連れ出して戦争に使い、道中で「補給」していかなければ中々追い付かなかったのかもしれない。



言い換えるなら、魏武は青州黄巾に新たな略奪ルートを開拓してやっていたのではないだろうか。もしかしたら、だが。