『漢書』元帝紀を読んでみよう:その8

その7(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180313/1520867109)の続き。




三年春、西羌平、軍罷。
三月、立皇子康為濟陽王。
夏四月癸未、大司馬車騎將軍(王)接薨。
冬十一月、詔曰「乃者己丑地動、中冬雨水、大霧、盜賊並起。吏何不以時禁?各悉意對。」
冬、復鹽鐵官・博士弟子員。以用度不足、民多復除、無以給中外繇役。
(『漢書』巻九、元帝紀)

永光3年。




皇子康はのちのち「恭皇」と呼ばれる事になる人物。詳しい事はこのシリーズが続けばいつか出てくる。




大司馬車騎将軍の王接は、宣帝の実母王氏の甥に当たる人物。元帝にとっても血縁者、外戚という事である。






塩・鉄官復活。つまりはあまりにも金が足りなくなった、という事である。




ついでに、「博士弟子」の人数を元に戻した。これについては初元5年の時に「博士弟子毋置員、以廣學者」と定められたものを元に戻したという事だ。


定員を置かないというのは、無限に置いていい、という事であるから、それ以前よりも人数が増加するであろうことは想像に難くない。今回、財政難から上限をまた決めました、という事だ。