『論衡』を広めた人

袁山松書曰「(王)充所作論衡、中土未有傳者、蔡邕入呉始得之、恆秘玩以為談助。其後王朗為會稽太守、又得其書、及還許下、時人稱其才進。或曰、不見異人、當得異書。問之。果以論衡之益、由是遂見傳焉。」抱朴子曰「時人嫌蔡邕得異書、或搜求其帳中隱處、果得論衡、抱數卷持去。邕丁寧之曰『唯我與爾共之、勿廣也。』」
(『後漢書』列伝第三十九、王充伝注)

退院以来何度も話の種にしてきた王充『論衡』だが、この書が世間に知られるようになったのはあの蔡邕が揚州に居た時(泰山羊氏に匿われていた頃)に発見したことと、あの会稽太守王朗がやはり発見して許(献帝がいた都市)へ持ち帰ったことから始まるということらしい。




蔡邕ハァンや王朗ハァンなら常識に属するエピソードなのかもしれないが、そうでない自分には新鮮な情報だったので記しておく。