元昌邑王、そう言う

大將軍光更尊立武帝曾孫、是為孝宣帝。
即位、心内忌(劉)賀、元康二年遣使者賜山陽太守張敞璽書曰「制詔山陽太守、其謹備盜賊、察往來過客。毋下所賜書!」敞於是條奏賀居處、著其廢亡之效、曰「臣敞地節三年五月視事、故昌邑王居故宮、奴婢在中者百八十三人、閉大門、開小門、廉吏一人為領錢物市買、朝内食物、它不得出入。督盜一人別主徼循、察往來者、以王家錢取卒、迾宮清中備盜賊。臣敞數遣丞吏行察。四年九月中、臣敞入視居處状、故王年二十六七、為人青鄢色、小目、鼻末鋭卑、少須眉、身體長大、疾痿、行歩不便。衣短衣大絝、冠惠文冠、佩玉環、簪筆持牘趨謁。臣敞與坐語中庭、閱妻子奴婢。臣敞欲動觀其意、即以惡鳥感之曰『昌邑多梟。』故王應曰『然。前賀西至長安、殊無梟。復來、東至濟陽、乃復聞梟聲。』臣敞閱至子女持轡、故王跪曰『持轡母、嚴長孫女也。』臣敞故知執金吾嚴延年字長孫、女羅紨、前為故王妻。察故王衣服言語跪起、清狂不惠。妻十六人、子二十二人、其十一人男、十一人女。昧死奏名籍及奴婢財物簿。臣敞前書言、『昌邑哀王歌舞者張修等十人、無子、又非姫、但良人、無官名、王薨當罷歸。太傅豹等擅留、以為哀王園中人、所不當得為、請罷歸。』故王聞之曰『中人守園、疾者當勿治、相殺傷者當勿法、欲令亟死、太守奈何而欲罷之?』其天資喜由亂亡、終不見仁義、如此。後丞相御史以臣敞書聞、奏可。皆以遣。」上由此知賀不足忌。
(『漢書』巻六十三、昌邑哀王髆伝)


昨日の記事より前の出来事。



前漢の皇帝の座を追われた元昌邑王劉賀。



今の皇帝である宣帝は前皇帝のことが気になり、彼がいる地の太守に事情を報告させた(昌邑王国はお取りつぶされて山陽郡になった)。



その報告の大意はこんなところ。




元昌邑王は正門を閉ざして勝手口だけを開け、下役に食べ物を買いに行かせるほかは何も出入りさせようとしていません。賊を警戒すると言って見回りを置いています。



役人を派遣して元昌邑王のところを視察したところ、本人は身体は大きいものの足に障害があり上手く歩けません。



「この辺は悪鳥の梟が多いですね」と質問したところ、「昔はいなかったのですが、皇帝になって戻ってきてから現れました」と答えました。




妻は十六人、中には元の執金吾厳延年の娘もいます。



子は二十二人、男子十一人、女子十一人です。



以前、昌邑哀王(劉賀の父)の歌姫たちを王が死んでも家に帰さずに王の墓に仕えさせたことについて、家に戻すよう言っていたところ、元昌邑王は「墓守の女たちは病気になれば治さずに死なせるし、殺傷事件でもあれば法で処罰せずすぐに死を賜う。太守はどうして家に帰すなどと言うのか?」と答えました*1

仁義の心を持ち合わせておりません。

宣帝は、この報告を受けて安心したという。



つまり、人心を得られるとは思えない、再度担がれる可能性は無い、と判断したのだろう。





それにしても二十代後半の年齢で妻16人、子供が22人いたと言うのか・・・。



まあ王だしな。




やたら警戒したり食べ物にも気を使ったりしたというのは、暗殺されるのではないかと疑っていたということなんだろうな。


食べ物を買いに行かせていたというのも、店屋物なら毒が入っていないはずだということだろう。




こういった特殊な立場の王などが何者かの都合のいいタイミングでコロッと「自然死」するというのは前後の時代でもよくあったことだし。




*1:「太守の手を煩わせないのだからいいじゃないか」ということだろうか?