『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その43

その42の続き。

五月、莽下吏祿制度曰「予遭陽九之阸、百六之會、國用不足、民人騷動、自公卿以下、一月之祿十緵布二匹、或帛一匹。予毎念之、未嘗不戚焉。今阸會已度、府帑雖未能充、略頗稍給、其以六月朔庚寅始、賦吏祿皆如制度。」
四輔公卿大夫士、下至輿僚、凡十五等。僚祿一歳六十六斛、稍以差筯、上至四輔而為萬斛云。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

五月、王莽は官吏の俸給の制度を命令した。「予は陽の気が極まる危機、百六年の危険に遭遇し、国家予算は不足し、人々は動乱を起こしていたため、大臣以下の一か月の俸給が布二匹や絹一匹などであった。予はこれを思うごとに悲しまずにはいられなかった。今、危険な時期は既に過ぎ去り、国家予算はまだ十分ではないとはいえ、次第に増えてきているので、六月庚寅より官吏の俸給を制度通りにするように」



四輔や大臣以下、十五段階の俸給を設けられた。幕僚の俸給は一年に六十六斛で、次第に増加していき、四輔は一万斛となった。



どうやら、王莽時代の官僚の俸給は従来の「半銭半穀」ではなく、布・絹を支給していた時期があったらしい。もちろんこれは本来の制度ではなく、おそらくは穀物不足から来る臨時の制度なのだろう。



百官受奉例、大將軍・三公奉、月三百五十斛。中二千石奉、月百八十斛。二千石奉、月百二十斛。比二千石奉、月百斛。千石奉、月八十斛。六百石奉、月七十斛。比六百石奉、月五十斛。四百石奉、月四十五斛。比四百石奉、月四十斛。三百石奉、月四十斛。比三百石奉、月三十七斛。二百石奉、月三十斛。比二百石奉、月二十七斛。一百石奉、月十六斛。斗食奉、月十一斛。佐史奉、月八斛。
凡諸受奉、皆半錢半穀。
(『続漢書』志第二十八、百官志五)


後漢の制度では三公の俸給が月三百五十斛、最低クラスで月八斛だというから、この数字だけで見ると新王朝の給与は高位の者により優しく、低位の者により厳しいものだったようだが、この数字通りに支給されたのかどうか怪しいとも考えられる(実際にまともに支給できずにいたわけで)ので、単純な比較をするのは難しいところだろう。


ただ、王莽は官吏の俸給についても前漢のそれに何らかの改変を行ったらしい、というのは言えるのだろう。