『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その21

その20の続き。


莽以錢幣訖不行、復下書曰「民以食為命、以貨為資、是以八政以食為首。寶貨皆重則小用不給、皆輕則僦載煩費、輕重大小各有差品、則用便而民樂。」
於是造寶貨五品、語在食貨志。百姓不從、但行小大錢二品而已。
盜鑄錢者不可禁、乃重其法、一家鑄錢、五家坐之、沒入為奴婢。
吏民出入、持布錢以副符傳、不持者、廚傳勿舍、關津苛留。公卿皆持以入宮殿門、欲以重而行之。
是時爭為符命封侯、其不為者相戲曰「獨無天帝除書乎?」
司命陳崇白莽曰「此開姦臣作福之路而亂天命、宜絶其原。」莽亦厭之、遂使尚書大夫趙並驗治、非五威將率所班、皆下獄。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

王莽は貨幣が使われないでいることから、また文書を下した。「民は食が命であり、貨幣が資本である。それゆえに八種の政治の筆頭は食なのである。貨幣はどれも重いものであったら少額の決済に使えず、どれも軽いものであったら決済が大変である。貨幣は大小それぞれ差があるものがあれば便利で民は楽なのである」
そこで五種類の「宝貨」を作った。そのあたりは『漢書』食貨志を参照せよ。しかし民は従わず、ただ大小の銭のみを使った。
銭を盗鋳をする者を禁止できないため、その罰則を厳しくし、一家族が盗鋳していたら五家族が連坐して奴婢とされることになった。
官吏や民が出入りする際、布銭を関所で確認する割符に添えることとされ、布銭を持っていない者は道の駅を利用できず、関所や船着場では厳しく取り調べされた。布銭が重んじられて通用されるようにと、大臣もみな宮殿の門に入るときに所持することにした。



この時、みな争って天からの予兆を作って侯に封建されようとし、作らなかった者は戯れに「どうして天帝からの任命書が無いのだろうな?」と言いあった。
司命陳崇は王莽に「これは悪い臣下が恩恵を求める道を開き、本当の天命を乱すものですから、元から絶たなければいけません」と上奏し、王莽もそれを懸念し、尚書大夫趙並に調べさせ、五威将・帥が広めたものでないものについては、献上した者をみな投獄した。



王莽、貨幣をまた改鋳するの巻。


八政。一曰食。二曰貨。三曰祀。四曰司空。五曰司徒。六曰司寇。七曰賓。八曰師。
(『尚書』周書、洪範)


「八政」とは、『書経』に記される八種類のこと。確かにその筆頭が「食」であり、その次が「貨」である。



莽即真、以為書「劉」字有金刀、乃罷錯刀・契刀及五銖錢、而更作金・銀・龜・貝・錢・布之品、名曰「寶貨」。
小錢徑六分、重一銖、文曰「小錢直一 」。次七分、三銖、曰「幺錢一十」。次八分、五銖、曰「幼錢二十」。次九分、七銖、曰「中錢三十」。次一寸、九銖、曰「壮錢四十」。因前「大錢五十」、是為錢貨六品、直各如其文。
黄金重一斤、直錢萬。
朱提銀重八両為一流、 直一千五百八十。它銀一流直千。是為銀貨二品。
元龜岠冉長尺二寸、直二千一百六十、為大貝十朋。公龜九寸、直五百、為壮貝十朋。侯龜七寸以上、直三百、為幺貝十朋。子龜五寸以上、直百、為小貝十朋。是為龜寶四品。
大貝四寸八分以上、二枚為一朋、直二百一十六。壮貝三寸六分以上、二枚為一朋、直五十。幺貝二寸四分以上、二枚為一朋、直三十。小貝寸二分以上、二枚為一朋、直十。不盈寸二分、漏度不得為朋、率枚直錢三。是為貝貨五品。
大布・次布・弟布・壮布・中布・差布・厚布・幼布・幺布・小布。小布長寸五分、重十五銖、文曰「小布一百」。自小布以上、各相長一分、相重一銖、文各為其布名、直各加一百。上至大布、長二寸四分、重一両、而直千錢矣。是為布貨十品。
凡寶貨五物、六名、二十八品。
鑄作錢布皆用銅、殽以連錫、文質周郭放漢五銖錢云。其金銀與它物雜、色不純好、龜不盈五寸、貝不盈六分、皆不得為寶貨。元龜為蔡、非四民所得居、有者、入大卜受直。
(『漢書』巻二十四下、食貨志下)

この時の「宝貨」は金・銀・亀の甲羅・貝・金属貨幣・布と六種類で、それぞれに細かい刻みで価値が定められたという。この細かさが本当に王莽らしい。


ただ、こんなのは誰がどう考えたって実用的ではないだろう。



現代でさえ記念貨幣並にレアになってしまう紙幣があるくらいだから、こんな時代にこんなことをしたら、もちろん通用するわけがないのである。