『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その23

その22の続き。


是歳、南郡秦豐衆且萬人。平原女子遲昭平能説博經以八投、亦聚數千人在河阻中。
莽召問羣臣禽賊方略、皆曰「此天囚行尸、命在漏刻。」故左將軍公孫祿徴來與議、祿曰「太史令宗宣典星暦、候氣變、以凶為吉、亂天文、誤朝廷。太傅平化侯飾虚偽以媮名位、『賊夫人之子』。國師嘉信公顛倒五經、毀師法、令學士疑惑。明學男張邯・地理侯孫陽造井田、使民棄土業。犧和魯匡設六筦、以窮工商。説符侯崔發阿諛取容、令下情不上通。宜誅此數子以慰天下!」又言「匈奴不可攻、當與和親。臣恐新室憂不在匈奴、而在封域之中也。」莽怒、使虎賁扶祿出。
然頗采其言、左遷魯匡為五原卒正、以百姓怨非故。六筦非匡所獨造、莽厭衆意而出之。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

この年、南郡の秦豊が一万人にも及ばんとする人を集めて蜂起した。平原郡の女性の遅昭平は投げ矢などのテーブルゲームに通じていたが、彼女もまた数千人を集めて黄河の中洲で蜂起した。



王莽は群臣を召し出して賊を捕える方策を議論させた。みな「これは天の虜囚、歩く死体といったようなもので、彼らの命運は刻々と迫っております」と言った。
以前の左将軍の公孫禄も召し出されて議論に参加していたが、彼は言った。
「太史令の宗宣は天文や暦を司り、気候の変化を読み取りながら、凶兆を吉兆であると言い、天文を乱し、朝廷をたばかっています。太傅・平化侯は虚飾により名望と地位を盗んでおります。「人の家の子を害することになるであろう」とはこの事です。国師・嘉信公は五経を混乱させ、代々伝えられた教えを損ない、学ぶ者たちを困惑させております。明学男張邯・地理侯孫陽は井田制を作り、民に農業を放棄させています。犧和の魯匡は六種類の管理項目を設け、職人や商人を追い詰めています。説符侯崔発は阿諛追従の輩で、下々の思いを上に伝えておりません。彼ら数人に誅罰を加えて天下の気持ちを慰めるべきであります」
また、こうも言った。
匈奴とは戦うべきではありません。和親すべきです。私は新王朝にとって憂うるべきは匈奴ではなく、領土の中にあるのではないかと恐れております」
王莽は怒って公孫禄を虎賁に強制退去させた。
しかしながら公孫禄の言葉を一部採用し、魯匡を五原卒正に左遷した。民が恨んでいたからである。
六種類の管理項目は魯匡独りで作ったものではなかったが、王莽は人々の気持ちに押されて左遷した。



秦豊はその後も群雄として生き残る。

長安政亂、四方背叛。梁王劉永擅命睢陽、公孫述稱王巴蜀、李憲自立為淮南王、秦豐自號楚黎王、張歩起琅邪、董憲起東海、延岑起漢中、田戎起夷陵、並置將帥、侵略郡縣。
(『後漢書』紀第一上、光武帝紀上)


彼はその後「楚黎王」を名乗ったのだそうだ。






王莽に直言が炸裂するの巻。


(王)莽故大司馬、辭位辟丁・傅、衆庶稱以為賢、又太后近親、自大司徒孔光以下舉朝皆舉莽。
(何)武為前將軍、素與左將軍公孫祿相善、二人獨謀、以為往時孝惠・孝昭少主之世、外戚呂・霍・上官持權、幾危社稷、今孝成・孝哀比世無嗣、方當選立親近輔幼主、不宜令異姓大臣持權、親疏相錯、為國計便。
於是武舉公孫祿可大司馬、而祿亦舉武。太后竟自用莽為大司馬。莽風有司劾奏武・公孫祿互相稱舉、皆免。
(『漢書』巻八十六、何武伝)

この公孫禄という人物は、哀帝死後に王莽が大司馬に選ばれる際、王莽の就任を妨害しようと考えて対立候補となった過去がある。


そういう因縁の人物だけに、王莽に対して忖度するつもりはなかったらしい。



平化侯とは地皇元年より太傅となっている唐尊、嘉信公とは国師の劉歆のこと。




羲和魯匡言「名山大澤、鹽鐵錢布帛、五均賒貸、斡在縣官、唯酒酤獨未斡。酒者、天之美祿、帝王所以頤養天下、享祀祈福、扶衰養疾。百禮之會、非酒不行。故詩曰『無酒酤我』、而論語曰『酤酒不食』、二者非相反也。夫詩據承平之世、酒酤在官、和旨便人、可以相御也。論語孔子當周衰亂、酒酤在民、薄惡不誠、是以疑而弗食。今絶天下之酒、則無以行禮相養。放而亡限、則費財傷民。請法古、令官作酒、以二千五百石為一均、率開一盧以賣、讐五十釀為準。一釀用麤米二斛、麴一斛、得成酒六斛六斗。各以其市月朔米麴三斛、并計其賈而參分之、以其一為酒一斛之平。除米麴本賈、計其利而什分之、以其七入官、其三及醩酨灰炭給工器薪樵之費。」
羲和置命士督五均六斡、郡有數人、皆用富賈。洛陽薛子仲・張長叔・臨菑姓偉等、乗傳求利、交錯天下。因與郡縣通姦、多張空簿、府臧不實、百姓俞病。
(王)莽知民苦之、復下詔曰「夫鹽、食肴之將。酒、百藥之長、嘉會之好。鐵、田農之本。名山大澤、饒衍之臧。五均賒貸、百姓所取平、卬以給澹。鐵布銅冶、通行有無、備民用也。此六者、非編戸齊民所能家作、必卬於市、雖貴數倍、不得不買。豪民富賈、卽要貧弱、先聖知其然也、故斡之。毎一斡為設科條防禁、犯者辠至死。」
姦吏猾民並侵、衆庶各不安生。
(『漢書』巻二十四下、食貨志下)


漢書』食貨志によれば、確かに羲和魯匡の建言が「六筦」制度の元であるかのようだが、彼だけの責任ではないというのも事実なのだろう。


とりあえず責任者の首飛ばすわ!制度はそのままで!というアカン感じの漂う対策がやっぱり末期っぽい。とまで言っては言い過ぎだろうか。