『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その11

その10の続き。


四月、徐郷侯劉快結黨數千人起兵於其國。快兄殷、故漢膠東王、時改為扶崇公。快舉兵攻即墨、殷閉城門、自繫獄。吏民距快、快敗走、至長廣死。
莽曰「昔予之祖濟南愍王困於燕寇、自齊臨淄出保于莒。宗人田單廣設奇謀、獲殺燕將、復定齊國。今即墨士大夫復同心殄滅反虜、予甚嘉其忠者、憐其無辜。其赦殷等、非快之妻子它親屬當坐者皆勿治。弔問死傷、賜亡者葬錢、人五萬。殷知大命、深疾惡快、以故輒伏厥辜。其滿殷國戸萬、地方百里。」又封符命臣十餘人。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

四月、徐郷侯劉快が数千人を集めて自分の領国で挙兵した。劉快の兄の劉殷は元は漢の膠東王で、新になって扶崇公に改められていた。劉快は即墨を責めたが、劉殷は城門を閉じ、自首して獄に繋がれた。人々も劉快を拒絶したため劉快は敗走し、長広で死亡した。



王莽は言った。「昔、予の祖先の済南愍王(斉の愍王)が燕の攻撃に苦しんだ時、斉の臨淄から出て莒に立てこもった。一族の田単がはかりごとを巡らせて燕の将軍を捕えて殺し、斉を奪い返した。今、即墨の人々は心を一つにして反乱者を滅ぼした。予はその忠誠心を大変嬉しく思うと共に、無実の者たちを哀れに思う。劉殷らや、劉快の妻子以外の他の親族で本来なら連坐すべき者たちは、みな罪に問わないように。死傷者を弔問し、亡くなった者には人ごとに五万銭の葬式代を下賜する。劉殷は大いなる天命を知り、劉快のことを深く憎み、それゆえに劉快はすぐに罪に伏した。劉殷の国を一万戸、百里四方とする」



また、天命の予兆をもたらした臣下十余人を封建した。


漢の膠東王だった劉殷は武帝の弟の子孫。徐郷侯劉快については、『漢書』王子侯表下によると「徐郷侯炔」と書かれている。いわゆる「推恩の令」で膠東王家から分家した侯である。



即墨は膠東王国の県のひとつで、おそらく首都である。劉快は分家なので同じ膠東王国内に領地があり、そこで挙兵して手近な都市であった即墨を攻め落とそうとしたということだろう。




ここでもかつての安衆侯劉崇の一族劉嘉のように自首して神妙にすれば連坐するどころか褒められる、という法則が発動。




反乱者の切り崩しには有効だっただろうが、出だしでつまずいても一族全滅はしないと分かれば逆にカジュアルに反乱してしまう危険性もあったのではないかなあ、とか思わないでもない。