『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その27

是歳、莽奏起明堂・辟雍・靈臺、為學者築舍萬區、作市・常滿倉、制度甚盛。立樂經、益博士員、經各五人。徴天下通一藝教授十一人以上、及有逸禮・古書・毛詩・周官・爾雅・天文・圖讖・鍾律・月令・兵法・史篇文字、通知其意者、皆詣公車。網羅天下異能之士、至者前後千數、皆令記説廷中、將令正乖繆、壹異説云。
羣臣奏言「昔周公奉繼體之嗣、據上公之尊、然猶七年制度乃定。夫明堂・辟雍、墮廢千載莫能興、今安漢公起于第家、輔翼陛下、四年于茲、功徳爛然。公以八月載生魄庚子奉使、朝用書臨賦營築、越若翊辛丑、諸生・庶民大和會、十萬衆並集、平作二旬、大功畢成。唐虞發舉、成周造業、誠亡以加。宰衡位宜在諸侯王上、賜以束帛加璧、大國乗車・安車各一、驪馬二駟。」詔曰「可。其議九錫之法。」
冬、大風吹長安城東門屋瓦且盡。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

この年、王莽は明堂、辟雍、霊台、学者のための一万区画にもおよぶ宿舎、市、倉庫を作ることを上奏した。それらは大変盛大なものであった。また『楽経』の博士を立て、また博士の人数を経書ごとに五人に増やした。天下の一芸に通じた人物十一人以上を召喚し、また逸礼、『古文尚書』、『毛詩』、『周官』、『爾雅』、天文、図讖、音楽、『月令』、兵法、『史籀』、文字に通じる者がいたら公車司馬門まで来させた。天下の異能の人物を網羅し、来た者は全部で千人規模となり、みな朝廷内で自説を記させ、誤りを訂正し異説を統一した。



群臣が上奏した。「昔、周公旦は王の後継者を奉じ、上公という尊い位に就き、それでもなお制度を定めるまで七年かかりました。そもそも明堂、辟雍は廃れてより千年にわたって復興したことがなかったものですが、今、安漢公は屋敷から呼び出されて陛下を補佐し、四年にして功績と徳が燦然と輝いています。安漢公は八月の上弦の月の庚子の日に使者として明堂、辟雍の造営にかかり、翌日辛丑に学者たちや民と十万人規模で集まり、二十日あまりで完成させました。唐虞や周といえどもそれを超えるところはございません。宰衡は諸侯王の上の席次とし、帛や璧、馬車を下賜なさいますように」



元后は「裁可する。九錫の制度について議論せよ」と詔を下した。



冬、大風が長安城の東門の屋根瓦を吹き飛ばし、ほとんど無くなりそうになった。




王莽は学者の端くれのような生活をしていたとされるだけに、そういった分野については力を入れている。



いわば、巨大な国立大学・大学院を整備したようなものか。



また、儒学だけでなく、兵法のような実利的な学問も対象になっていたことも注目すべきかもしれない。王莽の持つ実利的な側面の現われかもしれない。もっとも、個人的には当時の儒学自体に実利的な側面が割と強くあったようにも思うが。




そして、割と謎めいた施設「明堂」「辟雍」を完成させた。


正直、私のような素人にはどういうものか注釈などを見てもイマイチわからないが*1、とにかく前漢においては儒者武帝の頃から作りたがっていた施設であったので、儒者たちにとっては悲願だったのかもしれない。なので、それを実際に作った王莽は儒者から見れば千年に一度の大功を立てた人物ということになるのだろう。

*1:東晋次先生の著作で詳しく説明されていたはず。