越俗

六年、遷丹陽太守。是時海内新定、南方海濱江淮、多擁兵據土。(李)忠到郡、招懐降附、其不服者悉誅之、旬月皆平。
忠以丹陽越俗不好學、嫁娶禮儀衰於中國、乃為起學校、習禮容、春秋郷飲、選用明經、郡中向慕之。
墾田筯多、三歳輭流民占著者五萬餘口。
十四年、三公奏課為天下第一、遷豫章太守。
(『後漢書』列伝第十一、李忠伝)

後漢初期の李忠が丹陽太守となったとき、丹陽は「越」の習俗の影響が色濃かったことから婚姻などの礼制が中原とは異なっていたらしい。



李忠は郡民に儒学を奨励して習俗を改めていったという。





この時代から百数十年経つので一概に言えることではないだろうが、後漢末の丹陽がどうやら強兵の産地であるかのように扱われているのには、ここで言われているような「越」の習俗の影響があるのだろうか?