弔問の使者

魏書曰、(劉)備聞曹公薨、遣掾韓冉奉書弔、并致賻贈之禮。文帝惡其因喪求好、敕荊州刺史斬冉,絶使命。
典略曰、備遣軍謀掾韓冉齎書弔、并貢錦布。冉稱疾、住上庸。上庸致其書、適會受終、有詔報答以引致之。備得報書、遂稱制。
(『三国志』巻三十二、先主伝注)


劉備曹操が死んだことを聞くと弔問の使者韓冉を遣わしたという。



『魏書』によれば曹丕劉備曹操の死を利用して好を通じようということを嫌い、その使者を殺すようにと荊州刺史に命じた。


一方、『典略』によれば劉備が派遣した使者は病気と称して上庸より先へは行かず、劉備の弔問の書は上庸から曹丕の元まで届いたという。その返答を得た劉備は自ら制を称した。



「制を称する」とは、つまり劉備は自ら皇帝の勅命を称して命令を出すようになった、ということだ。




思うに、『魏書』と『典略』の記事は相互に補完する関係ではなかろうか。


つまり、まず劉備曹操の弔問の使者を出した。

曹丕はその使者を阻止しようとして荊州刺史へ殺害命令を出した(おそらくは丞相の権限をもって)。

使者韓冉は殺されないように上庸に逗留し、弔問の書だけを送ることにした。

その書が届いた時、曹丕は既に禅譲を受け即位していた。だから曹操弔問の書に対する返答が「有詔」なのではないか。

曹丕は自ら名乗るようになった魏の皇帝の名のもとに父の弔問の返礼をし、劉備の降伏を誘う書を送った。

劉備曹丕の即位を知ったので断交し、漢の皇帝が存在しないために自分が代わりに勅命を発し、近く自ら即位する準備を始めた。