涼州復興の一里塚

時軍師杜襲・督軍薛悌皆言明年麥熟、(所轄)亮必為寇、隴右無穀、宜及冬豫運。帝曰「亮再出祁山、一攻陳倉、挫衄而反。縱其後出、不復攻城、當求野戰、必在隴東、不在西也。亮毎以糧少為恨、歸必積穀、以吾料之、非三稔不能動矣。」於是表徙冀州農夫佃上邽、興京兆・天水・南安監冶。
(『晋書』巻一、宣帝紀

諸葛亮の来寇の後、魏では諸葛亮の再戦を恐れたが、司馬懿はすぐには来ない、と断言した。



そこで出来た時間的余裕で、冀州の農夫(屯田民のことだろうか?)を涼州の上邽で耕作させ、京兆・天水・南安の三郡には「監冶」を置いた、という。





「監冶」というのは冶金の監督官ということか?


つまり農具や武器の生産を大々的に行うということだろうから、それまで復興したとは言い難かった三輔や涼州に、ここでついに復興への本格的な施策がなされた、と言えるのかもしれない。



それと、どちらかというと戦乱か強制移住で人口が減るばかりだった涼州に、冀州から人が移動してくるというのも、地味に涼州にとっては重大事件かもしれない。