ある涼州刺史の記録

中平元年、北地羌胡與邊章等寇亂隴右、刺史左昌因軍興斷盜數千萬。(蓋)勳固諫、昌怒、乃使勳別屯阿陽以拒賊鋒、欲因軍事罪之、而勳數有戰功。
邊章等遂攻金城、殺郡守陳懿、勳勸昌救之、不從。
邊章等進圍昌於冀、昌懼而召勳。勳初與從事辛曾・孔常倶屯阿陽、及昌檄到、曾等疑不肯赴。勳怒曰「昔莊賈後期、穰苴奮劒。今之從事、豈重於古之監軍哉!」曾等懼而從之。勳即率兵救昌。
到、乃誚讓章等、責以背叛之罪。皆曰「左使君若早從君言、以兵臨我、庶可自改。今罪已重、不得降也。」乃解圍而去。
(『後漢書』列伝第四十八、蓋勲伝)

後漢末の中平年間、涼州では羌を中心とする反乱が起こっていたが、その時の刺史左昌は反乱軍討伐のための軍事行動の裏で横領を行っていた。



漢陽郡長史蓋勲はそれを諌めたが聞き入れられず、逆に左昌は蓋勲を罪に陥れるためにわざと反乱軍と交戦させたという。



さらに金城郡が攻めらた時には蓋勲が救援を進言したがこれも聞き入れられず、太守は討ち取られてしまった。




ついに刺史左昌自身が賊に包囲されると、左昌は蓋勲らに救援を命じた。既に不満爆発であった従事らはこの命令に応じたがらなかったが、公私の区別を付けるタイプの蓋勲は一喝、刺史の危機に駆けつけて賊を叱責した。


賊たちは「刺史が貴方の言うことを聞いて、我々に断固たる態度を取っていたら、我々も悔い改めていたかもしれません。しかしもう我々の罪は後戻りできないところまで来てしまっているので、もはや降伏もできません」と言って退却していったという。






もうこれでもかと言わんばかりに無能と公私混同が記録されて賊にさえ色々言われている刺史が悪い意味で凄い。


話を盛っている部分もあるにしろ、涼州刺史の失政が当時の反乱を招いたり長期化させたりした面があった、ということなのだろう。