シチュー引き回し

以高祖兄子從軍、撃反韓王信為郎中將。信母嘗有罪高祖微時、太上憐之、故封為羹頡侯。
(『史記』巻十八、高祖功臣侯者年表、羹頡侯劉信)

漢の高祖劉邦の兄の子である劉信もまた従軍しており、韓王信討伐に参加して郎中将になった、という。


まあ、そこまでの大功ではないにしろ、一応は劉邦の親族として働いてはいたようだ。





高祖兄弟四人、長兄伯、伯蚤卒。始高祖微時、嘗辟事、時時與賓客過巨嫂食。嫂厭叔、叔與客來、嫂詳為羹盡、櫟釜、賓客以故去。已而視釜中尚有羹、高祖由此怨其嫂。
及高祖為帝、封昆弟、而伯子獨不得封。太上皇以為言、高祖曰「某非忘封之也、為其母不長者耳。」於是乃封其子信為羹頡侯。而王次兄仲於代。
(『史記』巻五十、楚元王世家)

この劉信の母親、つまり劉邦の兄嫁(巨嫂)は、かつて劉邦が賓客を連れてきて食事を振る舞おうとしたときに、わざとシチューの鍋の横を叩いてシチューが底を付いたように見せかけたことで劉邦に恨まれていた。



そこで劉邦は劉信には高い爵位を与えずにおいたのだが、劉邦の父(太上皇)が孫にあたる彼を憐れんで劉邦にとりなしたため、列侯になることができたのだ、という。




劉信が劉邦の戦争にあまり寄与していなかったのなら爵位を与えられないのも無理はないが、一応は従軍して働いていたのだとすると、確かに彼だけ放置というのは劉信としてもいたたまれないものがあったであろう(劉邦の兄や弟は既に王にまでなっているのだから)。






なお、この劉信はその後罪があって列侯の位を奪われたという記事を最後に記録も途絶えている。



詔曰「・・・(中略)・・・朕以皇帝幼年、且統國政、惟宗室子皆太祖高皇帝子孫及兄弟呉頃・楚元之後、漢元至今、十有餘萬人、雖有王侯之屬、莫能相糾、或陷入刑罪、教訓不至之咎也。・・・(後略)・・・」
(『漢書』巻十二、平帝紀、元始五年)


前漢末、漢の宗室は十数万人に及び、それらは全て高祖の子孫か高祖の弟劉交、高祖の兄劉喜の子孫であったという。


あれ劉信は・・・?




劉信も劉交・劉喜とほとんど条件は変わらない血縁であったはずなのに、劉信の子孫は宗室と認められなかったのか、それとも子孫が完全に絶えていたのか。


どちらにしても寂しい話である。