魯粛怒りの制裁

王伯陽者、家在京口。家東有一大冢、傳是魯粛墓。伯陽婦、郗鑒兄女也、喪、乃平其墳以葬焉。後数年、忽一日、伯陽方在廳事中。忽見一貴人乗平肩輿、将従数百、人馬絡繹、皆浴鐵、徑来坐。怒謂伯陽曰、身是魯子敬、安冢在此二百許年矣。君何敢遽毀壊身冢。因目左右、何不與手。左右遂牽伯陽下牀、以刀環築是数百而去。伯陽登時絶、良久乃蘇、其築破處皆發疽、疽潰、数日而死。
(『捜神後記』)

東晋京口において、王伯陽という人が妻を葬る際に「魯粛の墓」であると伝承のあった塚を壊して葬った。




その数年後、王伯陽の仕事中に数百人もの従者を連れた貴人がやってきた。



その貴人は「私は魯子敬。二百年ばかりあの墓で安らかに眠っていたというのに、君はどうして墓を破壊してしまったのか?」とお怒りで、従者たちに目配せして王伯陽を引きずり下ろし、刀の柄頭の丸いところで王伯陽を数百回も突いてから去っていった*1



王伯陽は気絶し、それから息を吹き返したが、突かれた場所は全部できものになっており、そのできものが潰れて数日後には死んでしまったという。






墓を荒らすと祟られることもある、という教訓であるが、魯粛がなかなかワイルドなのは興味深い。




*1:「築」は「突く」の意味。