共和政体

於是國莫敢出言、三年、乃相與畔、襲厲王。厲王出奔於彘。
・・・(中略)・・・
召公・周公二相行政、號曰「共和 」。共和十四年、厲王死于彘。太子靜長於召公家、二相乃共立之為王、是為宣王。
【注】
索隠、共音如字。若汲冢紀年則云「共伯和干王位」。共音恭。共、國。伯、爵。和、其名。干、篡也。言共伯攝王政。故云「干王位」也。
(『史記』巻四、周本紀)


「共和」という言葉が周の故事に由来するというのは割と有名のようだが、よくよく見ると、周の「共和」年間というのは、「王を追い出し、下の者が王の行うべき政治を代行した」状態だったんだな。



この「共和」年間はその側にとっては王不在ということになるのだろう。



同じ王朝からいずれ別の王を立てるつもり(王の死か退位等と太子の成長と即位を待っていたのでは)というのが革命による新王朝樹立との違いか。