粟じゃなくて草だからセーフ

伯夷・叔齊、孤竹君之二子也。父欲立叔齊、及父卒、叔齊讓伯夷。伯夷曰「父命也。」遂逃去。叔齊亦不肯立而逃之。國人立其中子。
於是伯夷・叔齊聞西伯昌善養老、盍往歸焉。及至、西伯卒、武王載木主、號為文王、東伐紂。伯夷・叔齊叩馬而諫曰「父死不葬、爰及干戈、可謂孝乎?以臣弒君、可謂仁乎?」左右欲兵之。太公曰「此義人也。」扶而去之。
武王已平殷亂、天下宗周、而伯夷・叔齊恥之、義不食周粟、隠於首陽山、采薇而食之。及餓且死、作歌。其辭曰「登彼西山兮、采其薇矣。以暴易暴兮、不知其非矣。神農・虞・夏忽焉沒兮、我安適歸矣?于嗟徂兮、命之衰矣!」遂餓死於首陽山。
(『史記』巻六十一、伯夷列伝)

伯夷・叔斉というと「周の粟を食わず」という話で有名な人物である。




長安城北有平原、數百里、無山川湖水、民井汲巣居、井深五十丈。有伯夷墓。人食薇可常食、或云夷叔食之三年、顔色如故。
(『太平御覧』地部原条引『三秦記』)

彼らが粟の代わりに食したという「薇」(「のえんどう」だとか)はどうやらその土地の人の常食で、伯夷・叔斉もそれを食べていて三年間顔色も変わらなかったという話があるそうだ。



粟を食べなくてもその代わりに食べていた野草は食用に耐えるものであったのだとすると、伯夷列伝の話も少しばかり印象が変わってしまうなあ。