三国志はじめての官職:光禄勳

以前説明した「中郎将」などは、「皇帝直属」とは言ったが正確にはある官庁の一部門となっている。



その官庁(イコール大臣)が「光禄勳」である。



郎中令、秦官、掌宮殿掖門戸、有丞。武帝太初元年更名光祿勳。
屬官有大夫・郎・謁者、皆秦官。又期門・羽林皆屬焉。
(『漢書』巻十九上、百官公卿表上)

光祿勳、卿一人、中二千石。
本注曰、掌宿衞宮殿門戸、典謁署郎更直執戟、宿衞門戸、考其徳行而進退之。郊祀之事、掌三獻。丞一人、比千石。
(『続漢書』志第二十五、百官志二)

「光禄勳」は「郎」や「大夫」などが所属する官庁である。




当初は「郎中令」と呼ばれていたが、漢の武帝が「光禄勳」に改称した。




但し、「中郎将」などが全面的に「光禄勳」の指揮下にあったというのではないのだと思う。



「光禄勳」は実質的には「郎」などの総務担当みたいなもので、それらの官はおおむね皇帝直属状態であったと見ていいのだと思われる。




それでも、「郎」の取りまとめ役というのはやはりそれなりに重要な存在だったというのも間違ってないのだろう。


また、「考其徳行而進退之」とあるので、「郎」の昇進や異動を統括し事実上決定していたのは官庁のトップである「光禄勳」なのだろう。



未来のエリートたちの評定や昇進を決めていたのだとすれば、確かにこれもまた重要な官職かもしれない。