諸侯王国の人

彭宣字子佩、淮陽陽夏人也。治易、事張禹、舉為博士、遷東平太傅。
禹以帝師見尊信、薦宣經明有威重、可任政事、繇是入為右扶風、遷廷尉、以王國人出為太原太守
數年、復入為大司農、光祿勳、右將軍。
哀帝即位、徙為左將軍。歳餘、上欲令丁・傅處爪牙官、乃策宣曰「有司數奏言諸侯國人不得宿衞、將軍不宜典兵馬、處大位。朕唯將軍任漢將之重、而子又前取淮陽王女、婚姻不絶、非國之制。使光祿大夫曼賜將軍黄金五十斤・安車駟馬、其上左將軍印綬、以關内侯歸家。」
(『漢書』巻七十一、彭宣伝)


前漢の彭宣は淮陽国出身の儒者であったが、出世して廷尉にまでなった。

だが、諸侯王国の出身者は首都の官僚にはなれない、という制度があったらしく、太守に左遷されてしまった。


その後、再度出世して大司農などの九卿や右将軍になり、今度は左遷されることもなく勤め上げたが、哀帝が即位すると、彼を将軍から排除して自分の外戚を就けたいという企みから、こんな勅命を受けてしまった。


「いやー役人どもが諸侯王国の人間は宮殿に滞在して護衛する官にしちゃだめ、軍を率いて兵をつかさどる官にしちゃダメ、って言うんだよ。俺も君のことは将軍の任に耐える人材だとは思ってるんだけどさ、君の息子さんって淮陽王の娘さんと結婚してるじゃん?アレはだめだよ。だから君には黄金とか高級車とかプレゼントするからさ、官位は返上して引退しちゃってよ」




諸侯王の国の出身者は漢の官僚になれないわけではないようだが、色々と制限があったようだ。

ただ、彭宣が大司農や光禄勲を平気で務めていたことからも分かるように、少なくとも上記の時代(晩期)にはほとんど有名無実化していて、特殊事情があった時に罷免理由に持ち出されるという事の方が多かったんじゃないだろうか。