都護将軍についてのあれこれ

この回で出てきた件について。


秋八月、罷都護將軍、以其五署還光祿勳。
(『晋書』巻三、武帝紀)

これについて、「三署郎・羽林・虎賁を皇帝直属から将軍の元へ付けた」という意味ではないか、との推測を述べた。




これについて少し掘り下げてみる。




「五署」については、前回推測したように、「三署」「羽林」「虎賁」という、後漢では光禄勲に属する郎官たちの事を指しているのではなかろうか。


五官中郎將一人、比二千石。
本注曰、主五官郎。
五官中郎、比六百石。本注曰、無員。
五官侍郎、比四百石。本注曰、無員。
五官郎中、比三百石。本注曰、無員。
凡郎官皆主更直執戟、宿衛諸殿門、出充車騎。唯議郎不在直中。
(『続漢書』志第二十五、百官志二、光禄勲)

郎官とは宮殿内の衛兵であるが、そこいらの兵士とは格が違い、県の令・長と同格である。実力や成績に応じて高級官僚として出世する存在でもある。また騎兵や戦車など、特別な戦力として見込まれているという面もあったのだろう。



自帝都許、守位而已、宿衛兵侍、莫非曹氏黨舊姻戚。議郎趙彦嘗為帝陳言時策、曹操惡而殺之。其餘内外、多見誅戮。
操後以事入見殿中、帝不任其憤、因曰「君若能相輔、則厚。不爾、幸垂恩相捨。」操失色、俛仰求出。
舊儀、三公領兵朝見、令虎賁執刃挾之。操出、顧左右、汗流浹背、自後不敢復朝請。
(『後漢書』紀第十下、献帝伏皇后紀)


魏武が献帝を自分の勢力下へ連行してからの事。兵の指揮権を握る三公は皇帝への謁見の際に武器を持った虎賁に挟まれる事になっていた。その洗礼を受けた魏武(兵権を握る司空)は冷や汗かきまくったという。

いつ殺されても不思議ではない状況で、いつ殺されても不思議ではない事を皇帝にしてきた人物だから当然である。



この時に魏武に冷や汗をかかせた虎賁も「五署」の一つだと思われる訳だ。




そして「都護将軍」になっているのは魏武の元での夏侯淵曹洪



具体的な時期や経緯は不明ながら、「五署」の郎官を「都護将軍」によって統括する事にし、郎官を光禄勲から、ひいては皇帝の元から切り離そうとしたのではないだろうか。


こうすれば、魏武は冷や汗をかく必要はない。直接の指揮権を持つ相手は魏武とツーカーの仲なのだから。




言ってしまえば、魏武が皇帝から武器であり防具である郎官を取り上げたのが「都護将軍」という存在だったのではないか、という事だ。




これが官僚制度の正当な発展ではなく、簒奪によって生じた負の遺産だという認識があるから、晋はすぐにその制度を廃止したのかもしれない。