三国志はじめての官職:太常

「九卿」は名前の通り九人(以上)いたわけだが、少なくとも筆頭の大臣は決まっていたようだ。


それは「太常」である。



奉常、秦官、掌宗廟禮儀、有丞。
景帝中六年更名太常。
屬官有太樂・太祝・太宰・太史・太卜・太醫六令丞、又均官・都水兩長丞、又諸廟寢園食官令長丞、有廱太宰・太祝令丞、五畤各一尉。又博士及諸陵縣皆屬焉。
景帝中六年更名太祝為祠祀、武帝太初元年更曰廟祀、初置太卜。
博士、秦官、掌通古今、秩比六百石、員多至數十人。武帝建元五年初置五經博士、宣帝黄龍元年稍筯員十二人。
(『漢書』巻十九上、百官公卿表上)

太常、卿一人、中二千石。
本注曰、掌禮儀祭祀、毎祭祀、先奏其禮儀、及行事、常贊天子。
毎選試博士、奏其能否。大射・養老・大喪、皆奏其禮儀。每月前晦、察行陵廟。
丞一人、比千石。
本注曰、掌凡行禮及祭祀小事、總署曹事。
其署曹掾史、隨事為員、諸卿皆然。
(『続漢書』志第二十五、百官志二)


太常」については、前漢中期までは「奉常」と呼ばれていた。




各種の国家的な祭祀やそれに関わる部分を担当している。



この時代は半ば以上本気で天が人の世界に対して干渉してくるものと考えていたので、天の機嫌を損ねないようにするため祭祀の儀礼は大変重要なことであったはずだ。



というわけで、太常の地位は高く、前漢では就任者はほとんどが列侯であった。




三国志の時代の各王朝でも、太常は微妙に高い地位として認識されていたように思われる(特に呉が顕著)。



ちん○んないないされたマンこと司馬遷で有名な「太史(令)」も「太常」所管の官庁であった。





また、「博士」などもこの「太常」の所管であった。



「博士」はある特定の経典(いわゆる「五経」など)の専門家である。いわばその朝廷における第一人者ということだ。



だから、基本的にはこの「博士」になった者は何らかの経典について高度な専門知識を有していたということなのである。


我々の時代の「博士課程」とかのレベルではなく、それよりも遥かに高い地位・深い学識を持つ者に与えられる官職であることに注意が必要だろう。