日食の責任

魏文帝黄初二年六月戊辰晦、日有蝕之。有司奏免太尉、詔曰「災異之作、以譴元首、而歸過股肱、豈禹湯罪己之義乎!其令百官各虔厥職。後有天地眚、勿復劾三公。」
三年正月丙寅朔、日有蝕之。
十一月庚申晦、又日有蝕之。
五年十一月戊申晦、日有蝕之。
(『晋書』巻十二、天文志中)

魏の文帝曹丕は、日食が起こったときに太尉(三公)をその咎で罷免するようにとの上奏を受けて「災異というのは君主を譴責するものであるのに、その咎を股肱の臣に押し付けるなどというのは、夏の禹王や殷の湯王や栗山監督が『俺が悪い』と言ったこととはなんと違うことよ!これからは日食などがあっても三公を弾劾してはならないぞ」と命じた。


つまり、日食という天譴が起こったら、それは三公などではなく皇帝である自分の責任だ、と高らかに宣言したのである。





その翌年正月、日食があった。


その年の十一月にも、日食があった。


二年後の十一月にも、日食があった。





曹丕自身の責任と決まるや否や天が本気出し過ぎ。