郅綠五つの誓い

建武三年、又至廬江、因遇積弩將軍傅俊東徇揚州。俊素聞(郅)綠名、乃禮請之、上為將兵長史、授以軍政。
綠乃誓衆曰「無掩人不備、窮人於戹、不得斷人支體、祼人形骸、放淫婦女。」俊軍士猶發冢陳尸、掠奪百姓。
綠諫俊曰「昔文王不忍露白骨、武王不以天下易一人之命、故能獲天地之應、剋商如林之旅。將軍如何不師法文王、而犯逆天地之禁、多傷人害物、虐及枯尸、取罪神明?今不謝天改政、無以全命。願將軍親率士卒、收傷葬死、哭所殘暴、以明非將軍本意也。」從之、百姓悦服、所向皆下。
(『後漢書』列伝第十九、郅綠伝)

後漢初め、光武帝が各地に将を派遣して天下を平定していた時の事。



郅綠という高名な士が揚州を平定する将軍傅俊の長史となった。彼は傅俊の軍に「不意を打つな、人の嫌がることをするな、人の手足をもぎ取るな、人の死体を晒すな、女性を犯すな」という誓いを立てさせた。



しかしその軍は以降も墓荒らしをしてはそこにあった死体を晒し、民から略奪を行ったという。



そこで郅綠は将軍傅俊に「王者の軍隊はそういうことしない。今からでも悔い改めてください」と諫言し、傅俊もそれに従ったため、揚州を平定できた、という。






軍で略奪暴行が横行するのはいいことではないがよくあることなので、それ自体は驚きはしないが、墓を盗掘した後に埋葬されていた遺体をわざわざ晒しものにしていたらしい、というのはちょっと気になる。


そういえばこの時代の盗掘というと赤眉による皇帝たちの陵墓荒らしではないかと思うが、その盗掘でも呂后の墓で呂后の遺体を凌辱したという話が伝わっている。




墓を暴いたらそこの遺体には何らかの凌辱を与えないといけない、みたいな風習でもあったとでもいうのだろうか。