光武帝の宰相

(韓)歆字翁君、南陽人、以從攻伐有功、封扶陽侯。
好直言、無隱諱、帝毎不能容。嘗因朝會、聞帝讀隗囂・公孫述相與書、歆曰「亡國之君皆有才、桀紂亦有才。」帝大怒、以為激發。歆又證歳將飢凶、指天畫地、言甚剛切、坐免歸田里。帝猶不釋、復遣使宣詔責之。司隸校尉鮑永固請不能得、歆及子嬰竟自殺。
(『後漢書』列伝第十六、侯覇伝)

後漢光武帝の時に宰相(大司徒)となった韓歆は、光武帝が隗囂・公孫述の文通の手紙を読んだことについて「亡国の君主というのは才能豊かなものです。桀や紂も才能豊かな人物でした」と述べたのだそうだ。


光武帝はこれに激怒し、韓歆もまた弁明で飢餓が起こらんとしている現状を真っ正直に話したため、いよいよ光武帝の怒りに触れて罷免された。



だが、光武帝の怒りは収まっておらず、罷免され家に戻ってから再度使者を送り、このことを責める詔を出したという。




いよいよ進退窮まった韓歆は息子と共に自殺したそうだ。






気になるのは、どうして光武帝が隗囂・公孫述の手紙を読んだことがこんな大事になるのか、ということだ。



韓歆としては光武帝に隗囂・公孫述のようになるな、と言いたかったのだろうか?



儒者としての素養を身に着けた才能豊かな光武帝からすると、隗囂・公孫述が桀や紂ということは、自分もその仲間と言いたいのか、と解釈したということだろうか?






漢の高祖が周昌に「陛下は桀・紂のような君主です」とまで直言されたことと比較するとちょっと面白いかもしれない。