涙の獄中子作り

又安丘男子毋丘長與母倶行市、道遇醉客辱其母、長殺之而亡、安丘追蹤於膠東得之。(呉)祐呼長謂曰「子母見辱、人情所恥。然孝子忿必慮難、動不累親。今若背親逞怒、白日殺人、赦若非義、刑若不忍、將如之何?」長以械自繫、曰「國家制法、囚身犯之。明府雖加哀■*1、恩無所施。」祐問長有妻子乎。對曰「有妻未有子也。」即移安丘逮長妻、妻到、解其桎梏、使同宿獄中、妻遂懐孕。至冬盡行刑、長泣謂母曰「負母應死、當何以報呉君乎?」乃齧指而吞之、含血言曰「妻若生子、名之『呉生』、言我臨死吞指為誓、屬兒以報呉君。」因投繯而死。
(『後漢書』列伝第五十四、呉祐伝)


後漢の呉祐という者が膠東侯相であった時のこと。



侯相というのは実質的には県令と同じで、その領内の長官である。




その膠東と同じ北海国の中にある安丘という県の人間である毋丘長は、ある時酔漢が母を辱めたためにその酔漢を殺害して逃亡していたのだが、呉祐の治める膠東で捕捉された。



そこで呉祐は彼に対しこう語りかけた。



「子が母を辱められた気持ちはわかる。だが本当の孝行息子なら、殺害に及んでしまってから母にかかる迷惑を考えるものだ。しかしこのようなことをしてしまって、許してしまうのは義とは言えないし、かといって刑を加えるのも忍びない。どうしたものかね?」




つまり、自分たちとしては捕まえて刑を施すのは忍びないが、さりとて見逃すわけにもいかない、というわけで、これはたぶん自首を促しているのだろう。



自分の気持ちも汲んでくれていると感じたのであろうか、その言葉に思うところがあった毋丘長は自ら枷をはめて投降した。





次いで呉祐は毋丘長に対し妻子の有無を尋ねると、妻はいるが子はいないとわかった。



この時代、子を残さずに死ぬことは大きな親不孝であった。



そこで呉祐は毋丘長の妻を確保して連行、獄中の毋丘長の枷を外した上で妻を同じ獄に入れたのである。





つまり、処刑される前に獄中子作りに励み、子孫を残せというのである。




その結果、妻は妊娠し、毋丘長は殺人の罪で刑を執行されることとなった。



毋丘長は母に対し、「罪を犯して母に迷惑をかけた自分が呉さまには良くしていただいて、どうやって報いればいいのかわからない」と泣き、「子には「呉生」と名付け、その子に呉さまの恩に報いるように言いつけてほしい」と言い、自ら指を食いちぎって誓いの証とした。



そしてその上でロープで自殺したのであった。

刑を受けることなく死ぬことで最後の誇りを守ったのかもしれない。





男は処刑されることを前提とした獄中子作りというのは流石に壮絶すぎて、自分だったら使い物になるかどうか自信が無い。




*1:へんが「矛」つくりが「令」の字。