楽毅と諸葛亮の優劣

樂毅・諸葛孔明之優劣、夫以毅相弱燕、合五國之兵、以破強齊、雪君王之恥、圍城而不急攻、將令道窮而義服。此則仁者之師、莫不謂毅為優。余以五國之兵、共伐一齊、不足為強。大戰濟西、伏尸流血、不足為仁。夫孔明包文武之徳、劉玄徳以知人之明、屢造其廬、咨以濟世、奇策泉涌、智謀從膻、遂東説孫權、北抗大魏、以乘勝之師、翼佐取蜀。及玄徳臨終、禪其大位、在擾攘之際、立童蒙之主、設官分職、班敍衆才、文以寧内、武以折衝、然後布其恩澤於中國之民。其行軍也、路不拾遺、毫毛不犯、勳業垂濟而隕。觀其遺文、謀謨弘遠、雅規恢廓。己有功則讓於下、下有闕則躬自咎、見善則遷、納諫則改、故聲烈震於遐邇也。孟子曰、聞伯夷之風、貪夫廉。余以為覩孔明之忠、姦臣立節矣。殆將與伊・呂爭儔、豈徒樂毅為伍哉。
(『芸文類聚』人部六、品藻、張輔『楽葛優劣論』)

以前、晋の張輔という者が楽毅よりも諸葛亮の方が上と言っていたというのを紹介したが、その内容が上記である。



楽毅は弱小の燕の宰相となり、五国の兵を集めて強大な斉を破ったが、五国で一国を破ったのでは強いとは言えないし、多くの血を流しており仁とも言えない。



それに対して諸葛亮劉備を助けて蜀を取り、幼い君主を盛り立てて国内をまとめて民に恩沢を施し、行軍は略奪に走ることも無く、功績は下の者に譲り、下の者に足りないところがあれば「俺が悪い」と言うという風であった。



おそらく、諸葛亮の忠の心に触れれば、姦臣でさえ忠節を尽くすようになることだろう。伊尹や太公望のようなレジェンドと肩を並べてしかるべき存在であり、楽毅と同レベルなどであるはずがない。

おおまかに言うとこういうところであろうか。



諸葛亮の評価高杉という感もあるが、後の唐における「武成王の十哲」において諸葛亮楽毅が共にメンバー入りしているところを見ると、楽毅以上は流石に無いとしても楽毅と同等ではあるという認識はこのころから早くも定着しだしていたのかもしれない。