史氏と王氏

衛太子史良娣、宣帝祖母也。太子有妃、有良娣、有孺子、妻妾凡三等。子皆稱皇孫。
史良娣家本魯國、有母貞君、兄恭。以元鼎四年入為良娣、生男進、號史皇孫。
武帝末、巫蠱事起、衛太子及良娣・史皇孫皆遭害。史皇孫有一男、號皇曾孫、時生數月、猶坐太子繫獄、積五歳乃遭赦。治獄使者邴吉憐皇曾孫無所歸、載以付史恭。恭母貞君年老、見孫孤、甚哀之、自養視焉。
(『漢書』巻九十七上、衛太子史良娣伝)

これは大したことではないのだが、宣帝の外戚でも祖母の実家史氏と母の実家王氏では事情が全く違うという点について。




宣帝の祖母(史皇孫劉進の母)である史氏は、皇太子の妻妾の中で「妃」に次ぐ「良娣」であった。



逆に言うと皇太子には史氏以外に正妻(妃)がいた可能性が高いし、皇太子の嫡子も劉進ではなかった可能性が十分ある。



だが、王氏は事実上買われてきた歌姫というあまり良い身分とは言い難い立場であり、仮に彼女が生んだ宣帝が長子だったとしても嫡子として扱ってもらえたかはわからないのではなかろうか。





また、史氏の実家はある程度は裕福だったと考えられる(宣帝を養育し、学問の師も付けている)のに対し、先日見たように王氏の実家はどうやら娘を事実上の口減らしに出したらしい。


そして何より、その出自と経緯のためにそもそも王氏の実家や親兄弟のことが宣帝即位後も知られていなかったのに対し、史氏は皇太子一家が処刑された段階で既に知られていたということが両者の家格の差を如実に表していると言えるだろう。