王翁須の人生その2

前回の続き。

居四五歲、翁須來言「邯鄲賈長兒求歌舞者、仲卿欲以我與之。」媼即與翁須逃走、之平郷。仲卿載廼始共求媼、媼惶急、將翁須歸、曰「兒居君家、非受一錢也、奈何欲予它人?」仲卿詐曰「不也。」
(『漢書』巻九十七上、史皇孫王夫人伝)


劉仲卿の元で歌舞を教わってから4、5年後。ということは王翁須は12〜14歳程度ということになる。


王翁須は母の元へ来て「邯鄲の賈長児に連れていかれてしまう」と言ったので、母は彼女を連れて自分の故郷である平郷へ逃げた。



だが劉仲卿は王翁須の父である王廼始を連れて追いかけてきて、王翁須を連れ帰ろうとする。



母が「娘はあなたの家で一銭だって受け取っていないのに、どうして他人に引き渡そうとするのです?」と劉仲卿に言うと、劉仲卿は「そんなことしませんよ」と答えた。




だがそれは嘘であった。



後數日、翁須乗長兒車馬過門、呼曰「我果見行、當之柳宿。」媼與廼始之柳宿、見翁須相對涕泣、謂曰「我欲為汝自言。」翁須曰「母置之、何家不可以居? 自言無益也。」媼與廼始還求錢用、隨逐至中山盧奴、見翁須與歌舞等比五人同處、媼與翁須共宿。明日、廼始留視翁須、媼還求錢、欲隨至邯鄲。媼歸、糶買未具、廼始來歸曰「翁須已去、我無錢用隨也。」因絶至今、不聞其問。
(『漢書』巻九十七上、史皇孫王夫人伝)


数日後、結局王翁須は馬車に載せられてしまい、その時「私はやっぱり連れていかれる。柳宿に行かされる」と叫んだので、父母も柳宿まで追いかけて行って娘と対面した。



だが、なんとか説得しようとする母に対して娘は「もうおやめください。家にいられないということはないでしょう。言っても無益です」と母に言い、もう諦めて賈長児の元へ行く決意をした。



それでも父母は金を工面して中山の盧奴県まで追いかけ、邯鄲へも行こうとしたが、結局は間に合わずに王翁須は賈長児に連れられて行ってしまったのである。



賈長兒妻貞及從者師遂辭、「往二十歳、太子舍人侯明從長安來求歌舞者、請翁須等五人。長兒使遂送至長安、皆入太子家。」及廣望三老更始、劉仲卿妻其等四十五人辭、皆驗。
(『漢書』巻九十七上、史皇孫王夫人伝)

王翁須は他の娘たちと共に皇太子の家に買われて長安へ行き、そこで太子の子である史皇孫劉進の子を産むことになるのだった。




もしかしたら諸侯王にだってなれるかもしれない身分の子を産んだことで、王翁須の運命はこれで好転するのではないかと思われた矢先、例の事件で王翁須もまた命を落とすのであった。



(任)宣奏王媼悼后母明白、上皆召見、賜無故・武爵關内侯、旬月間賞賜以鉅萬計。頃之、制詔御史賜外祖母號為博平君、以博平・蠡吾両縣戸萬一千為湯沐邑。封舅無故為平昌侯、武為樂昌侯、食邑各六千戸。
(『漢書』巻九十七上、史皇孫王夫人伝)

これらの調査結果を知った宣帝は明らかになった母の家族たちを呼び寄せて伯父たちに爵位や莫大な金品を与え、祖母には一万戸以上の領地、伯父にも列侯の位を与えたのであった。





もしかすると王翁須の家族たちは王翁須が新たな皇帝の実母だということをお召しの時まで知らなかったかもしれない。






おそらくはあまり裕福ではない家の娘が口減らしに出され、さらに人買いによって買われていった先で貴人に見初められ、それゆえに命を落とすがそれゆえに皇帝が生まれたという、なかなかにドラマチックな話ではないか。