王翁須の人生その1

初、上即位、數遣使者求外家、久遠、多似類而非是。
既得王媼、令太中大夫任宣與丞相御史屬雜考問郷里識知者、皆曰王嫗。
嫗言名妄人、家本涿郡蠡吾平郷。年十四嫁為同郷王更得妻。更得死、嫁為廣望王廼始婦、產子男無故・武・女翁須。
翁須年八九歳時、寄居廣望節侯子劉仲卿宅、仲卿謂廼始曰「予我翁須、自養長之。」媼為翁須作縑單衣、 送仲卿家。仲卿教翁須歌舞、往來歸取冬夏衣。
(『漢書』巻九十七上、史皇孫王夫人伝)

前漢の宣帝の実母は王夫人といい、武帝の皇太子だった劉拠の子で「史皇孫」と呼ばれた劉進の側室であったようだ。




だが彼女は皇太子劉拠、その子劉進らの反乱で運命を共にし、まだオムツも取れていない赤子の宣帝を残して死んでしまった。




宣帝が皇帝になると、当然宣帝は実母の親族などを探したわけだが、どうやら足取りや身分がはっきりしていたわけではなかったらしく、捜査は難航していた。




おそらく、皇帝の外戚になれるということで名乗り出る偽物などもいたのだろうし、「王氏」というポピュラー極まりない姓ゆえに追跡しにくかったというのもあったのだろう。




だが、ついに本物らしき親族が発見された。



王夫人の母と思われる王嫗は名前を「妄人」といい、涿郡蠡吾県平郷の出身であった。



同郷の王更得という男と結婚したが夫が死んだため同じ涿郡広望県の王廼始と再婚し、王無故、王武という男子、及び王翁須という女子を産んだ。





王翁須は八、九歳くらいの時に広望県を領国とする広望侯の子、劉仲卿なる人物の元で育てられることとなった。


ちなみにこの広望節侯というのはあの中山靖王劉勝の子である。



劉仲卿はまだ幼い王翁須に歌舞を教えたというから、この劉仲卿は貴人の家に仕える女性または夜の蝶を育成していたのだろうか。



これは一面から見ると、おそらくは娘を育てるだけの余裕のない王廼始・王媼一家の口減らしであり、事実上の人身売買だったのだろう。







その後、この王翁須親子に訪れる運命は・・・・次回へ続く。