上洛都尉から護羌校尉

(高)幹遂走荊州上洛都尉王琰捕斬之。
(『三国志』巻一、武帝紀、建安十一年)

(吉)茂同郡護羌校尉王琰、前數為郡守、不名為清白。
(『三国志』巻二十三、常林伝注引『魏略』)


後漢末、袁紹の甥高幹を捕えたのは上洛都尉王琰という人物だった。




また、どうやら建安年間から黄初年間頃のどこかで護羌校尉にまで至ったらしい馮翊の人王琰という人物がいたらしい。





何度か太守にもなったという経歴は上洛都尉と護羌校尉の間の事と思えばちょうど辻褄が合うので、確証は無いがこの「王琰」は同一人物の可能性が高いと言ってよいのではないだろうか。





護羌校尉になった時期は杜畿と蘇則の間あたりだろうか。





あまり評判自体はよろしくなかったようなのに太守や護羌校尉にはなっているというのは、太守としての能力はあったということだったりするのかなあ。

ここまでくると妄想の域ではあるが。