曹操挙兵の経緯について一考

昨日の記事の補足のようなもの。


會靈帝崩、太子即位、太后臨朝。大將軍何進袁紹謀誅宦官、太后不聽。進乃召董卓、欲以脅太后、卓未至而進見殺。卓到、廢帝為弘農王而立獻帝、京都大亂。卓表太祖為驍騎校尉、欲與計事。太祖乃變易姓名、間行東歸。
【注】
魏書曰、太祖以卓終必覆敗、遂不就拜、逃歸郷里。
(『三国志』巻一、武帝紀)


曹操董卓によって任じられた官を放棄して郷里に逃げようとした、とされている。




名を変え間道を使ってまで逃げようとしたということは、その行為が自分の命取りになる可能性がある危険なものだという認識はあったのだろう。


董卓に背く、即ちこの時点においては体制に背く行為なのだから当然であるが。




それでもなお郷里に行こうとするのは、郷里に戻った上で財産をまとめ一族郎党を引き連れて逃亡する気なのか、或いは郷里で反董卓の兵を挙げようというのだろう。



挙兵でなかったとするとその後の展開が少々いきあたりばったりすぎるので、最初から郷里で挙兵することを念頭に置いていたと考えておこう。





出關、過中牟、為亭長所疑、執詣縣、邑中或竊識之、為請得解。
【注】
世語曰、中牟疑是亡人、見拘于縣。時掾亦已被卓書。唯功曹心知是太祖、以世方亂、不宜拘天下雄儁、因白令釋之。
(『三国志』巻一、武帝紀)

その途上、曹操は河南郡中牟県の亭長に逃亡者ではないかと疑われて拘束された。



そして、その間に中牟の掾は既に董卓の命令書を受け取っていたのだという。




つまり、曹操が拘束されている間に董卓からの「曹操を捕えろ」という指名手配書が中牟県まで届いていたということだろう。



逃亡は失敗しているのである。


普通に考えて、数日の誤差で目的地である郷里、予州沛国にも同じ命令が届くことだろう。




この窮地は曹操を高く評価する功曹の熱弁によって回避されたが、ここで時間を食ったことで曹操の当初の計画は全て狂い、郷里である沛国譙へ戻ることを断念せざるを得なくなったのではないかと思われる。



郷里の沛国にももう手配書は回っていて、曹操が来るのを待ち構えているだろうと容易に想像できるからだ。



ただ、この時点ではおそらくであるがまだ郷里にいる曹操の親族たちは逮捕・処刑まではされてはいなかったのではないかと思われる。


曹操のここまでの行動自体は捕まるようなモノではあっても反乱のような大罪にはならないのではないかと思われるからだ(まだ挙兵していない以上、反乱者とは扱われないだろう)。



卓遂殺太后及弘農王。太祖至陳留、散家財、合義兵、將以誅卓。冬十二月、始起兵於己吾、是歳中平六年也。
(『三国志』巻一、武帝紀)

だが、もはや何もしないでいても曹操自身はいずれ逮捕され極刑になるのを待つだけになってしまっているわけで、曹操は郷里に戻れなくても反董卓の挙兵を行って打って出るしか生き延びる道が無くなってしまったのだろう。




それほど遠く離れてはいないとはいえ、郷里の一族郎党は曹操の行動を十分把握できていない状況だったことだろうから、一歩間違えれば郷里の一族たちは曹操の挙兵という大逆罪に連座して全員が捕らわれ処刑されることになる。



その点でも挙兵するなら郷里に戻ってからの方が望ましかったわけだが、それが出来なくなった以上、曹操はその危険を覚悟で敢えて挙兵に踏み切った、ということなのだと思われる。




(曹)嵩靈帝時貨賂中官及輸西園錢一億萬、故位至太尉。及子操起兵、不肯相隨、乃與少子疾避亂琅邪、為徐州刺史陶謙所殺。
(『後漢書』列伝第六十八、曹騰伝)

その結果、曹嵩は曹操の挙兵で即逮捕されずに済んだ(本来ならどう考えても連座対象である)ようなので、おそらく挙兵と同時に連絡が行って難を逃れたのだろうが、曹嵩のような疎開場所を持たなかった者や連絡が行き届かなかった者、または洛陽などにいた者など、官憲に逮捕されて助からなかったという一族もいたことだろう。





こういった事情が、曹操の覇業を支えた者に曹操の同族が意外と少ない(曹仁曹洪などがいると思うかもしれないが、曹氏が栄えてから既に3代目であることを考えると、人数的に少なく感じるし、曹操の兄弟や甥のような血縁的にごく近い者はきわめて少ない、というかまるでいない)という結果を招いたのかもしれない。

もしかしたら、だが。