柱天都部

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20130429/1367163886において一度書いたことではあるのだが、もう一度。


(劉)伯升自發舂陵子弟、合七八千人、部署賓客、自稱柱天都部
(『後漢書』列伝第四、齊武王縯伝)

光武帝劉秀の兄、劉縯(劉伯升)は挙兵の際に「柱天都部」を名乗った、とされる。



しかしこれは官名なのか何なのかイマイチわからないのではないか。




(翟)義自號大司馬柱天大將軍、以東平王傅蘇隆為丞相、中尉皋丹為御史大夫、移檄郡國、言(王)莽鴆殺孝平皇帝、矯攝尊號、今天子已立、共行天罰。
(『漢書』巻八十四、翟義伝)

それについて一つ心当たりがあるのがこれである。



劉伯升よりずっと前に王莽に非を唱えて挙兵した翟義は「柱天大将軍」を名乗っている。




「柱天都部」というのは、「柱天大将軍」の「都部」ではないのか?



「柱天大将軍」が指揮する幾つかの軍団の一つ、という意味で「部」なのではないか?*1




劉伯升は(本人の気持ちはどうあれ)翟義の反乱との継続性を誇示することで、できるだけ多くの支持を集めたり、王莽の簒奪に対する抵抗なのであるという印象を強めたりしようとしたのだろうか・・・?*2

*1:更に言うと、「都」は「幾つかあるうちの主要なもの」ということではなかろうか。当時の「都郷」などの用法であろう。

*2:なおその後には劉伯升自身が「柱天大将軍」を称するようになる。