太守から丞相掾属

王淩字彦雲、太原祁人也。叔父允、為漢司徒、誅董卓。卓將李傕・郭汜等為卓報仇、入長安、殺允、盡害其家。淩及兄晨時年皆少、踰城得脱、亡命歸郷里。淩舉孝廉、為發干長、稍遷至中山太守、所在有治、太祖辟為丞相掾屬。
(『三国志』巻二十八、王淩伝)


三国魏の王淩は中山太守を務めるに至っていたが、曹操に招かれて丞相掾属になったのだという。




しかし、同じ丞相掾属でも鄭渾・楊俊などは県令・県長から招かれているし、和洽などは無官の状態から招かれたようであるから、太守から丞相掾属というのは少々不釣り合いに思える。




だが、中山太守というと冀州なので、思うに彼は「袁氏の元で」中山太守になっていたのではなかろうか。





明記されていないが、王淩は袁氏に付いて中山太守になっていたが、敗北時に官を失い、無位無官となっていた時に曹操が招いた、ということなのではなかろうか。



しかも、その前に就任していた発干県長の時は曹操の元にいたようなので、彼はどこかの段階で曹操の元から袁氏へと鞍替えしたということなのではないか(兗州が猛攻を受けた官渡の時期だろうか)。




つまり、陳寿によるこの伝の原型となった資料において、王淩が「曹操から袁氏へと鞍替えした上に袁氏敗北により官を失う」というあまりカッコよくない経歴だったことを「為發干長、稍遷至中山太守」と省略することでごまかしていたのではないだろうか。