もしかしたら宗家争い

昨日の記事(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20150426/1429975083)についてであるが、どうしてこの韋氏の本貫について混乱が生じているのかについて考えてみた。




ここから先は基本妄想、でっちあげの類であることをまず心に留めておいてほしい。






前漢の韋賢子孫の韋氏は韋玄成直系の京兆杜陵と、それ以外の扶風平陵とに分かれて住んでいたことになる。



(韋)賢四子。長子方山為高寝令、早終。次子弘、至東海太守。次子舜、留魯守墳墓。少子玄成、復以明經歴位至丞相。
(『漢書』巻七十三、韋賢伝)

前漢宣帝の時に丞相になった韋賢には4人の男子がおり、韋玄成は末子であった。



初、(韋)玄成兄弘為太常丞、職奉宗廟、典諸陵邑、煩劇多罪過。父賢以弘當為嗣、故敕令自免。弘懐謙、不去官。及賢病篤、弘竟坐宗廟事繫獄、罪未決。室家問賢當為後者、賢恚恨不肯言。於是賢門下生博士義倩等與宗家計議、共矯賢令、使家丞上書言大行、以大河都尉玄成為後。賢薨、玄成在官聞喪、又言當為嗣、玄成深知其非賢雅意、即陽為病狂、臥便利、妄笑語昏亂。
(『漢書』巻七十三、韋玄成伝)

韋賢の後継者は生きていた男子のうちの最年長である韋弘の予定であったが、韋弘がよりによって韋賢危篤という折りに投獄され、明日をも知れぬ身となった。




しかし後継者を決めないと爵位(丞相だったので列侯になっている)が相続できない。



門下生や親族たちは「韋賢の命令」と偽って末子の韋玄成を後継に決めたと発表したのである。




だがその命令が父の本意ではないと思った韋玄成は、敢えて自分が精神的によろしくない状態であると演技し、後継者になれないようにと図ったのである。



而丞相御史遂以玄成實不病、劾奏之。有詔勿劾、引拜。玄成不得已受爵。宣帝高其節、以玄成為河南太守。兄弘太山都尉、遷東海太守。
(『漢書』巻七十三、韋玄成伝)


最終的には韋玄成が後を継ぐよう定められたが、兄韋弘の系統もまたその後も栄えているのである(韋弘の子が大司馬車騎将軍になった韋賞である)。




ここまでは『漢書』に載っていること。





さて本題はここからである(妄想はここからとも言う)。




昨日の記事に出た後漢の韋彪(扶風平陵)は、韋賞の子孫であるから韋弘の系統だ。



一方、韋義(京兆杜陵)は韋玄成の系統である。




この2系統の間には、「高祖韋賢が本当は継がせたかった系統」と「朝廷に公認された正統後継者ン系統」と、それぞれに我こそが韋氏の嫡流であると主張する材料があることになる。



この両者の子孫たちの間では、事あるごとに自己の血筋をより上に見せようとするような暗闘があったのではなかろうか。



物理で殴り合うような闘争はなかっただろうが、たとえば韋氏の系譜を作る上ではそれぞれの陣営が互いに工作をしていた、といったような・・・。





韋玄成の子孫ならば、自分たちこそ宗家であると主張するため、「韋氏は最初から京兆杜陵にいて、仲には扶風平陵に移住した者もいる」と韋弘系を分家扱いしようとする工作(本当は最初はみんな扶風平陵に住んでおり、韋玄成だけが京兆杜陵に移住している。本来は韋玄成の方が分家扱いだったのだろう)を行うというのがありそうな話ではないか。




そしてこういった工作の結果が浸透し、『後漢書』『新唐書』にも取り入れられていった・・・というところではなかろうか。