諸葛都護は生きていた

(泰始)四年、故中軍士王富、有罪逃匿、密結亡命刑徒、得數百人、自稱諸葛都護、起臨邛、轉侵江原。江原方略吏李高閭術縛富送州。刺史童策斬之。
初、諸葛瞻與訒艾戰於綿竹也、時身死失喪、或言生走深逃。瞻親兵言富貌似瞻、故富假之也。
(『華陽国志』大同志)

蜀征服後の事。



王富という者が罪があって逃亡し、他の逃亡者たちを集めて「諸葛都護」(都護諸葛瞻のことである)を自称して蜀で挙兵した。




王富はすぐに捕えられて処刑されたが、この挙兵の裏にはこんなことがあったというのだ。




諸葛瞻が訒艾と戦って敗れた際、その死体が発見されなかったため、「本当は生きていて逃げおおせたのではないか」と言う者がいたという。



そして、諸葛瞻に仕えていた兵士から王富は顔が諸葛瞻に似ていると言われたため、蜀漢時代人気があった諸葛瞻を自称したというのである。





この手の「敗死したはずのあの人は実は生きているのではないか」という類の話はしばしば見られるが、諸葛亮の息子もまたその例であったというお話。