社稷の臣

論曰・・・(中略)・・・昔蒙穀負書、不徇楚難。
【注】
戰國策曰、呉・楚戰於栢舉、呉師入郢。蒙穀奔入宮、負離次之典、浮江逃於雲夢之中。後昭王反郢、五官失法、百姓昏亂。蒙穀獻典、五官得法、百姓大化。校蒙穀之功、與存國相若、封之執圭。蒙穀怒曰「穀非人臣也、社稷之臣也。苟社稷血食、余豈患無君乎!」遂弃於歴山也。
(『後漢書』列伝第五、李通伝、論)

元は『戦国策』に見える話に、こんなものがあったそうな。




呉と楚が戦っていた際、呉が楚の都である「郢」を攻め落とした。



その時、蒙穀という者は楚の宮殿に駆け込み、法典をお救いしてそのまま雲夢沢に逃げ込んだ。




その後、楚王の帰還が成されても法典を失った楚の政治は混乱していたが、蒙穀が保護していた法典を献上したので、政治も修復されたのであった。



楚王は彼の功績に爵位や領地で報いようとしたが、蒙穀は「自分は人臣ではなく「社稷の臣」である。社稷さえちゃんと祭られているのならば、君主がいないことなど心配しない」と言い放ち、楚王の恩賞を拒絶したという。






社稷」がいわば農業神の祭祀と考えると、古代においては事実上天下国家であるとか民の生活であるとかに当たるのではないかと思う。




つまり「社稷の臣」とは、「天下の民を優先して考える臣」であり、それはそもそもの由来からして「君主よりも天下万民を優先する臣」という意味合いを含んでいるということらしい。




現代風に言うと「国民の生活が第一」であろうか。いや違うな。