反乱者か皇太子か

太子有故人在湖、聞其富贍、使人呼之而發覺。吏圍捕太子、太子自度不得脱、即入室距戸自經。山陽男子張富昌為卒、足蹋開戶、新安令史李壽趨抱解太子、主人公遂格鬬死、皇孫二人皆并遇害。
(『漢書』巻六十三、戻太子拠伝)

久之、巫蠱事多不信。上知太子惶恐無他意、而車千秋復訟太子冤、上遂擢千秋為丞相、而族滅江充家、焚蘇文於膻橋上、及泉鳩里加兵刃於太子者、初為北地太守、後族。
(『漢書』巻六十三、戻太子拠伝)


前漢武帝の皇太子だった劉拠は、武帝の寵臣江充に陥れられるという危機感から江充排除のために兵を挙げ、長安を戦場にする大乱を引き起こした。




乱は失敗に終わり、太子や家族は逃亡の末潜伏していたが発覚し、太子はもはやこれまでと首をくくって自殺したという。




その後、この事件がどうも江充側のせいであると思うようになった武帝は太子の名誉回復を図り、その中で太子に刃を加えた兵士は一族皆殺しにしたという。


太子が反乱者とは言えなかったというのだとしたら、その兵士も反乱者ではなく太子を攻撃した犯罪者ということになってしまうのだろう。





太子が死ぬ場面の記述では攻撃を受けたとは記されていないが、実際には斬られていた(刺された)ということだろうか。



それとも、首吊り後の死体について「解」したというのは死体に刃を加えた(死体を分解・分断した)ということなのだろうか。





いずれにしろ、少し前までは反乱者の親玉への攻撃で(おそらく)評価されて抜擢を受けた者が主君の気持ち次第で犯罪者扱いされたというのだとしたら恐ろしい話である*1

*1:もっとも、皆殺しにされたのはあくまでも別の罪状であるかもしれないが。