『漢書』昭帝紀を読んでみよう:その5

その4(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180118/1516201300)の続き。




五年春正月、追尊皇太后父為順成侯。
夏陽男子張延年詣北闕、自稱衛太子、誣罔、要斬。
夏、罷天下亭母馬及馬弩關。
六月、封皇后父驃騎將軍上官安為桑樂侯。
詔曰「朕以眇身獲保宗廟、戰戰栗栗、夙興夜寐、修古帝王之事、通保傅、傳孝經・論語尚書、未云有明。其令三輔・太常舉賢良各二人、郡國文學高第各一人。賜中二千石以下至吏民爵各有差。」
罷儋耳・真番郡
秋、大鴻臚廣明・軍正王平益州、斬首捕虜三萬餘人、獲畜産五萬餘頭。
(『漢書』巻七、昭帝紀

戻太子(衛太子)あらわる。

始元五年、有一男子乗黄犢車、建黄旐、衣黄襜褕、著黄冒、詣北闕、自謂衛太子。
公車以聞、詔使公卿將軍中二千石雜識視。長安中吏民聚觀者數萬人。右將軍勒兵闕下、以備非常。丞相御史中二千石至者並莫敢發言。
京兆尹(雋)不疑後到、叱從吏收縛。或曰「是非未可知、且安之。」不疑曰「諸君何患於衛太子!昔蒯聵違命出奔、輒距而不納、春秋是之。衛太子得罪先帝、亡不即死、今來自詣、此罪人也。」遂送詔獄。
(『漢書』巻七十一、雋不疑伝)


以前の武帝紀のところで出てきたと思うが、武帝の最初の皇太子劉拠は反乱して逃亡の果てに死んでいた


だが武帝自身がこの皇太子の反乱について、冤罪なのに追い詰められたために起こした事で本人の罪ではない、と考えるようになったらしく、群臣や民の間でもおそらくは同じように思っていた者が多かったのではないだろうか。



そんなこんなで出現した「衛太子」に下手に触れられないでいた群臣に対して、この時の長安近辺すなわち首都圏の長官である京兆尹雋不疑は即座にこの人物を逮捕した。


天子與大將軍霍光聞而嘉之、曰「公卿大臣當用經術明於大誼。」繇是名聲重於朝廷、在位者皆自以不及也。
大將軍光欲以女妻之、不疑固辭、不肯當。久之、以病免、終於家。京師紀之。
後趙廣漢為京兆尹、言「我禁姦止邪、行於吏民、至於朝廷事、不及不疑遠甚。」
廷尉驗治何人、竟得姦詐。本夏陽人、姓成名方遂、居湖、以卜筮為事。有故太子舍人嘗從方遂卜、謂曰「子状貌甚似衛太子。」方遂心利其言、幾得以富貴、即詐自稱詣闕。廷尉逮召郷里識知者張宗祿等、方遂坐誣罔不道、要斬東市。一云姓張名延年。
(『漢書』巻七十一、雋不疑伝)


今の皇帝を擁立している霍光は「衛太子」が本物扱いされでもしたら困る立場なので、雋不疑の行動を称賛した。



そして逮捕された「衛太子」は、取り調べの結果「湖県*1で占い師をしていた夏陽の成方遂という人物」であることが分かったが、「張延年」という別名もあったということになっている。


まるで違う名前を二つ持っているという少々不自然な話になっているが、とにかくその「衛太子」は偽物と認定されて処刑となった。




ただ、当時の漢王朝を象徴する色であった黄色で統一したコーディネートをどこから調達したのかとか、ちょっと気になるところだ。

*1:湖県は敗北した衛太子が死んだ地である。