大叔父様が後を継ぐか否か

是日、與羣臣議所立。帝曰「方今宇宙未清、二虜爭衡、四海之主、惟在賢哲。彭城王據、太祖之子、以賢、則仁聖明允。以年、則皇室之長。天位至重、不得其才、不足以寧濟六合。」乃與羣公奏太后太后以彭城王先帝諸父、於昭穆之序為不次、則烈祖之世永無承嗣。東海定王、明帝之弟、欲立其子高貴郷公髦。帝固爭不獲、乃從太后令、遣使迎高貴郷公於元城而立之、改元曰正元。
(『晋書』巻二、世宗景帝紀

魏の皇帝斉王曹芳が廃位された後、当時の権力者司馬師らは次の皇帝として曹操の息子の曹拠を推薦したが、郭太后(文帝の妻)は「それでは明帝は子孫が途絶えてしまうことになる」と言って反対し、明帝の弟の子である高貴郷公を推薦した。





これは邪推になるんだろうが、司馬師と大臣たちは明帝の子孫を養子含めて断絶させたかったんじゃないか、と思わないでもない。



明帝を暴君と認識する者にとっては、どうせなら根本的に別の皇統にしてしまいたかっただろうからだ。




それに、もしかすると曹操自身の強いプッシュがあったという明帝の皇統を否定することで、文帝と明帝を後継に選んだ曹操自身の判断をも否定しようという意図があったのかもしれない。





司馬氏の政権は明帝期でもなおくすぶっていた曹植派のような、後継者争いの敗者側の支持を集めやすい選択を敢えてしていたのかもしれないなあ。