戯言

久しぶりにビビッときたので書いてみる。


帝崩于嘉福殿、時年三十六。
(『三国志』巻三、明帝紀


魏の明帝は36歳で死亡した。

逆算すると生年が建安9年(西暦204年)になる。しかし父曹丕と母甄氏が一時的接触できるのは母甄氏がいた鄴が陥落する建安9年8月以降なので、明帝が建安9年生まれだとしたら生物学上の父は曹丕ではないことになる。

三国志』注で裴松之が明帝は36歳ではないことを力説するのはこの事情があるためだろう。

しかしこれでは『三国志』明帝紀の没年齢は誤りということになってしまう。
本当にそれでいいのだろうか。




三国志』をはじめとする当時の史書には、明帝の父について云々する記述は無い。

つまり、当時明帝の父が誰であるのかについては疑問の余地は無かったのだ。



しかし、明帝の没年齢は36歳とも記されている。



これはどういうことか。


曹叡の実父が曹丕ではないということは誰もが知っていて疑問の余地が無いから、敢えて記すまでも無かったのだ」と考えれば辻褄が合う。



そもそも、甄氏が曹丕に捕まったのは、夫である袁煕のいる幽州ではなく、鄴にいたからである。
だがこの当時、劉備曹操は妻妾を戦場に連れ、共に逃げる事さえあった。
将である夫が遠隔地に赴任する際、妻妾が必ず離れ離れになるというものではないのだ。

では、なぜ甄氏は鄴にいたのか。


既に、曹叡を身ごもっていた」からではないのか。出産・育児という大事ゆえに、夫から離れ姑らのいる鄴に送られたのではないか。

そして、鄴が陥落した時にはおそらく既にその子は産まれていただろう。


曹丕が甄氏を捕獲した時には、既に甄氏は赤子を抱いていた」ことになる。

そして、その後曹丕は甄氏を自分の妻妾の一人とし、その子(曹叡)を自分の子として育てることにしたのだろう。
曹操は自分の妻妾の連れ子何晏を自分の子として扱おうとした。
同じことだと思えばそこまで奇異なことでもない。
曹丕には曹協という長子がいたようなので、少なくとも連れ子を自分の子扱いすることにした時点では曹叡が後継ぎになることは無いし、曹丕としてもさほど問題だとは思わなかったのかもしれない。



この事情はおそらく魏の人間なら知らない人がいなかったのだろうし、隠しても仕方のないことだったのだろう。
故に、「曹叡は本当は曹丕の子ではない」は曹叡個人への誹謗中傷にはなりえない。
なぜなら、それは自明の事である上に、養子縁組を決めた曹丕や反対しなかった曹操への批判になってくるからだ。


それゆえに、魏に批判的な陣営を含めた諸書は特に「実子ではない」ことを記さなかったのだろう。
没年齢を見ればわかることだし、当時を知る者なら誰もが知っていて秘密の暴露にならない。つまり記事としての価値が無いからだ。

ドラフト1位指名を受けて契約した時に最初から契約金10億と宣言していたとすれば、後から「あの選手の契約金は10億」と言い立てる新聞などあるわけがないのだ。




いつものようにつまらぬ戯言なので無視していいです。